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「ごめんなさい」その八_第八話_難しいものにはやりがいを感じてしまうと同時に、無力感も

 こんばんは、三日月まるるです。
 もう無理かもしれませんので、今回から更新は月に一度、その代わり一度に二話更新としたいと思います。すみません。
 拍手ありがとうございます。励みになります。
 それでは第八話です。どうぞ。












 



 八 難しいことにはやりがいを感じてしまうと同時に、無力感も



 



 



 学校が終わって、憲邇(けんじ)さまのお家で待つのもいいけど、でも最近はこうやって公園で時間をつぶしてることが多い。憲邇さまのお家には、良子(りょうこ)さんがいるから。隠し続けるのがちょっと大変になってきたし、それに……



「……」



 ブランコにぶらぶら揺れてると、少しだけ、気はまぎれてくれる。でも、でも……



 お家に遊びに行けば行くほど、そこにしめる良子さんの大きさに落ちこんじゃう。置きっぱなしのくつ、歯ブラシ、そのとなりにある良子さんしか使わないへんな水の出るの。それから、良子さん専用のお部屋。この前良子さんがいないときにこっそりまゆちゃんとのぞかせてもらったけど、そこは大人の女のお部屋で、お母さんとも、まゆちゃんとも違ってた。みゆみたいにぬいぐるみなんてなくて、ベッドと机と本棚、お洋服が入ってるクローゼットに、お化粧をする台だけ。でも、ティッシュ箱がよく見たらうさぎさんで、やけどにきくっていう葉っぱと、それから色とりどりのろうそくがあった。しかも、本棚にあるのはほとんど憲邇さまが置いといてほしいって言ったやつなんだって。……ずるい。やっぱり、憲邇さまの写真はきっちりあったけど。しかも、良子さんが持ち込んだ本の中にはさまって。



 良子さんは、隠してる。言ってない。見てるとわかる。憲邇さまがいなくてみゆたちだけだとすぐわかるくらい、好きだっていうふんいきだけど、憲邇さまがいると途端に奥のほうに隠しちゃう。絶対に素振りも見せない。ときどき、憲邇さまが良子さんにひどいことを言うと、ふてくされてわかりやすくなるけど。でも、憲邇さまは怒ってるだけだって勘違いしてるだけ。みゆたちが言っても、全然わかってくれない。だいたい、お部屋があること自体お手伝いさんだっておかしいって、お母さんに聞いたもん。



「あのお部屋はね、元々私のお部屋じゃないの。前にご主人様と同棲してた人のお部屋。別れちゃったから、身の回りのお世話をする人がいるんだって」



 なんて、ほんとっぽいこと言うけどさ、ほんとはさ、自分でいろいろ、持ちこんだんだと思うな。クッションとか、シーツだって憲邇さまのと違うし、トイレのカバーとかも全部良子さんがしたみたいだし。



 半分、お家は良子さんのものみたいな感じがする。キッチンのどこになにがあるかなんて、良子さんしか知らないみたい。電話だって、とるのはいっつも良子さん。玄関に出るのも良子さん。それで、憲邇さまの、つ、妻みたいに、高い、きれいな声で喋って……



 やっぱり、五月だけどさむいな……もう、行こっかな……高くにある時計はまだ、ブランコに乗って三十分もたってないって、言ってた。もう少し、いなきゃ。今行っても、良子さんは楽しそうにお仕事してるから、一人だとつらい。だれか、ほかの人がきてないと間がもたない。仕草が、態度が、かわいくって……落ちこんじゃうから。



 でも、指輪もらった。結婚、する。



 信じなくちゃ。



 気がついたらブランコは動いてなかった。ただ自分の影をじっと見てて……雨でも、降ってほしい気になる。雨にぬれて、頭が冷えたら、少しは楽になるかも。



「……?」



 あれ、影が増えてる。だれだろ。ゆっくり顔を上げると、すぐそばに病院で着てるような服を着てる女の子がいた。みゆよりずいぶん背がおっきいけど、でも良子さんよりは低い。ちっちゃくて細くて白くて、大人びてるような、子供みたいな、不思議な印象を受ける人。薄いてぶくろ、長い髪。さらさらで、いいなぁ……



「……」



「……」



 じっと、見つめてる。でも黙ったまま。手持ちぶさたに髪をかき上げて、なにか言おうとしたけど、言えずに閉じた。



「……」



「?」



 そっと、腕が持ち上がって隣のブランコを指す。「となりでしたら、どうぞ」



「……」



 ゆっくりブランコに座る。



「……?」



 あれ、首傾げてる。あたしは軽く勢いをつけて、ブランコをいききさせる。



「……!」



 わかったみたい。女の人ははじめてみたいに、大きく行ったりきたりをした。



 ほんのちょっと、くちびるがゆるんでた。



「……ぁ、ぁ……」



「?」



 か細い、小さな声。でも、うんときれいで、透きとおってる。きっと、くちべたなんだ。みゆもそうだから、なんとなく気持ち、わかるかも。だから、じっと待った。



「……っ」



 風で髪がなびいても、おさえずに、なにか言おうとして、言えないのが続く。



 思いきって、みゆから言ってみた。



「これ、楽しいですよね」



「っ……」



 きぃきぃさせる。「こうしてると、ふわふわで楽しいです」



「……」



「でも、ちゃんとつかまってないと危ないですよ。この前、うっかりはなしちゃって、けがしちゃいましたから」



「……」



 あ、言いすぎた。こうやって、ぺちゃくちゃ喋られるとつらいのに。ついてけないから。



 しばらく、待たなくちゃ。憲邇さまは、みゆが話せないときはじっとじっと待っててくれる。ひざの上に乗せてくれたり、髪をといてくれたり。手をつないでるだけでも、みゆは勇気をもらってる気がする。



 この人もそんな人が、いるのかな……あ、目があった。



「……ぁ……」



「……」



「……ぁりがと……」



 へんな、笑顔。あ、これだ。みゆが最初憲邇さまにしちゃった顔。これだ……そりゃ、憲邇さまはやだよね……ううう……



「あ、ああ、あ、ご、ごめ、ごめ……っ、っ……」



「? あの」



 え、え? なんで、そんななきそ……あ!



「ち、違います、あなたのことがいやだから、やな顔したんじゃ、ないんです、ただ、やなこと、思い出しちゃっただけで」



「……」



「あなたのせいじゃ、ありません。お礼言われて、うれしかったです」



「……」



 でも、その人はただじっと、震えてた。ぎゅっとブランコを握って、ただ、地面だけを見つめて。……待たなくちゃ。この人はみゆとおんなじ感じがする。ほかの人が、自分をどう思ってるのかが怖くてたまらない。きげんをそこねるかもって、怖いんだ。そこねたら、怒られるから、叩かれるから。きっとこの人もおんなじだったんだ。……みゆにも、憲邇さまみたいなとこが少しでもあったら、勇気を分けてあげれるのに。



 女の人はずっと動かなくて、でも、よく見ると目がこっちきたりあっち行ったり、動いてた。みゆは、見てるしかない。ずっと見てるしか。ここでそらしたら、絶対話してくれなくなる。



 おやつの時間。だれも通らなかった。よかったかもしれない。だれか来たら、はずみで飛び出してっちゃうから。



 日ざしが少しあったかくなる。かげは伸びて、この人の長い髪をゆらゆらゆらしてた。



「……け、敬語、じょうず、だね。すごいね……」



 わ、話した。やった、すごい。この人、すごく勇気ある。



「わ、わたし、人と話すの、苦手で……話せ、ないから、怒られて、ばっかり……」



 やっぱり、みゆとおんなじだ。「わかります。みゆも、そうなんです」



「話さなきゃ、話さなきゃ、って思っても、こ、こ、怖くて……」



「わかります。すごく」



「あ……あなたは、やさしいね。あの人みたい。不思議……」



「えっ」



 くるしそうな、笑顔。



「あなたみたいな人が──」



 言いかけて、止まる。「……ごめんね、もう、帰るから」



「あの……?」



「ありがとう。わたし、またがんばれるかも」



 軽く手をふって、深々と、おじぎをする。さみしそうに笑ったまま、向こうを向いて。



 とぼとぼと歩いてく女の人の足には、なにもついてなかった。



 



 



 



 



 仕事で、ある患者さんの治療が長い間続いている。彼女はかなり難しい病にかかっている。



 私がその病室に入ると、中にいた患者さんが顔を輝かせた。嬉しそうに手を合わせて、にこやかに話し出す。



「せんせぇ、おはよ。ねぇせんせぇ、最近、むねがどきどきしてくるしいの。せんせぇのこと考えるとなるの。こいかなぁ? すきかなぁ? ねぇせんせぇ、しんさつしてください……」



 彼女はそう言って、胸元をはだけさせる。……成長している胸が、白日に晒される。それをなんら躊躇していない。羞恥心がない。精神が、幼いから。



 彼女、真崎(しんざき)奈々穂(ななほ)は、家族と無理心中に遭った。父の会社が事業に失敗し、失業して、家庭が荒れ、母が過労に倒れ、彼女も高校二年でアルバイトをして家計を助けていた。だが父は仕事に就けずに……やがて貧困生活に絶望し、諦観からかまず母親の首を絞めた。そして、娘に手を出そうとし、必死の抵抗を受け誤って頭部を強打させてしまう。それで死亡したと思い込んだ父親は、道路に飛び出して自殺をした。



 ……彼女は、大好きだった父親に殺されようとした現実と頭部への衝撃から、幼時退行、恐らく人格の解離を起こしていた。親戚たちも彼女を思い遣ったが、誰も彼女を引き取ろうとはしなかった。それは父親の失業による貯蓄の減少、及び借金と関係が浅くないだろう。そして、保険金は……結局、実質的に彼女は一人取り残されたのだ。……治る見込みも、ないままに。



 私がこの子の治療を担当することになった。身体的にもう異常はない。ただ、精神のみが苦しんでいる。



 治せるのか、私に。よしんば治ったとしよう。それは本当に彼女のためになるのか? もはや誰も彼女の味方がいない世界を見せて、彼女はまた笑えるようになるのか? わからなかった。それが生きることだと、言えればいいが……そう直接的に彼女に告げることは、取り返しのつかない結果に繋がりそうで、怖い。



 私はできるだけ、人懐っこい笑顔を作る。



「ダメだよ奈々穂ちゃん、そんな簡単に体を見せちゃ。女の子なんだから、隠さないと」



「やん、せんせぇのえっち。……せんせぇだけだよ? ほかの人には見せたげないもん」



「ありがとう。でも恥ずかしいから、なるべく隠そうね」



「はぁい」



 彼女は……自分の記憶から、家族という存在を消去していた。両親のことを訊ねても、そんな人たちは知らないと答えたのだ。育ててくれた人はいるという。恐らくそれが両親だろうが、両親であるということではなくなっているのだろう。両親は自分の首を絞めたりなどしないから。その辺りは記憶が混同していると思われる。



 友人の記憶は残っていた。だが、その友人たちは彼女が今の精神年齢、彼女いわく五歳のものだけで、その人たちは既に離れ離れになっている人が多く、探すのに苦労し、見つかったとしても当人から違うと言われ、向こうも知らないと言われるだけだった。誰一人、彼女の言う友人を見つけられなかった。もちろん、五歳児が友人の成長を理解できないというのもある。だが向こうも知らないというのはやはり、違っていたのだろう。それから他にも彼女の近辺にいたと思われる人を連れてきたが、彼女のことを覚えている人たちはいなかった。そういった人たちを何度か連れてきたことがある。が、時間のずれが、彼女たちを融和させることを阻んでしまうのだった。今の友人にしても然り。もはや彼女には、家族も、友も、誰も、いなかった。治す、以外には。



 今の友人たちに、そして親戚の方たちにも、なるべく顔を出して欲しいと頼み込んでおいたが、彼らは段々と会わないようになっていった。……女友達はかわいそうな顔をするだけで、親戚たちは次第に面倒くさがっていく。恋人もいなかった。彼女を想っている人も。アルバイトでそんな余裕はなかったのだろうと、誰かが言っていた。



 そんな孤独を……彼女は耐えていた。少なくとも、私の前では。だが、看護師たちの話ではいつも泣いてばかりだという。私の前でだけ、こうして笑っていると。……事実だと知った。彼女の泣き声が、遠くから聞こえてくるときがあった。そのときはどうしても時間に都合がつかず、泣き声はしばらく続いたという。私が後で顔を出すと、彼女は泣きはらした顔を一転させた。……その笑顔は、辛かった。



 どうしたらいい。



「せんせぇ? どうしたの?」



「……いや、その……」



「あっ、ななほ、にがいのも、せんせぇが見ててくれるなら、のめるよ?」



「……苦いの、飲んだことあるんだ?」



「うん。がんばってのんだら、おねえさんほめてくれた」



「そう。偉いね」



 彼女はぱぁっと笑顔になる。



「ありがとっ」



「……」



 彼女は、なにかしてあげたくなるような、不思議な魅力を持っている。放っておけないとでもいうのだろうか。自ずから治したいと思う患者さんは久しぶりだった。



 解離したままでいるのか、それとも一時的なだけなのか。なにが治療できたことになるのか、それすら、もう誰にもわからない。人格の統合だけが治療の行き着く先ではないのだから……私の見解だけでいいのなら。そんなものはもう決まっている。



 泣かないようになればいい。



「外を、散歩でもしようか」



「せんせぇ、いっしょ?」



「うん、一緒に」



「じゃ行くぅ」



 彼女は嬉しそうに私に抱きついてきた。本当に、身体的にはもう退院しても大丈夫だろう。だけど、このままじゃ……



 彼女と腕を組んだまま、病院の敷地内の庭を歩いていく。……日差しは高い。絶好の散歩日和だ。患者さんたちも、たくさん外に出ている。



 私は売店でアイスクリームを買って、彼女に食べさせた。嬉しそうに彼女はそれを頬張る。見ていると心が安らぐような……そんな悲しい、笑顔。



「せんせぇも食べる? はい、あーん」



「いや、いいよ」



「……食べてくれないの?」



 寂しそうに眉を寄せるので、私は仕方なく口を開けた。甘いバニラが、口の中で溶けていく。



「おいしぃ?」



「うん、おいしい」



「えへへ。よかったぁ」



「……」



 白いベンチで、足をぶらぶらさせながら彼女はゆっくりとアイスクリームを食べていった。食べ終えると、肩を私に預けてくる。



「……ねぇせんせぇ。むねがどきどきするの、くるしいの、せんせぇ治してくれる?」



「……ごめんね。それは治せないんだ」



「どうしてぇ?」



「多分、好きっていう、恋の病だから」



「……」



 彼女は一瞬、呆けた顔をとった。それから、嬉しそうに顔を綻ばせる。



「そっか。やっぱりすきなんだ。こいなんだぁ……せんせぇ、すきぃ……」



 体いっぱいで、その感情を表現してくる。ぎゅっと締めつけてくる。苦しさは……心地いいものだった。



「せんせぇ、ななほのこと、すき?」



「……わからない」



「……そっか」



 しゅんとする彼女に、私はどことなく心奪われて……思わず、口走ってしまっていた。



「でも、嫌いじゃないから。好きなのかも、しれない」



「ほんとぉ? だったら、うれしいな……」



 気が付けば……髪を、梳いていた。日常の習慣は覚えているらしく、髪のケアもきちんとしていた。だから、さらさらで……よく風に舞う。目を閉じてそれを受ける彼女は、とても嬉しそうで……



 見て、いられない。



「ななほ、せんせぇならおよめさんになったげてもいいよ」



「ありがとう。奈々穂ちゃんが大人になったら、考えるよ」



「うん。おねがい……ななほもね、早く大人になってがんばるから。おりょうりと、おせんたくと、ええと、おそうじ? がんばるから。いっしょにいてほしいな……ときどきで、いいの。そばにいてね。ななほがせんせぇの中にはいっちゃうくらい、ぎゅっとしてくれると、うれしいな……」



「……」



「ななほはまだ子どもだから、たくさん泣いちゃうけど、せんせぇがいっしょにいてくれたら、うれしいし、それまでがまんできるようになるから……だから、せんせぇは、どこにも行かないでね」



 みんな、どっか行っちゃったから。



「……私はどこにも行かないよ。君を治すまで、一緒にいてあげる……泣きたかったら、たくさん泣いていいよ。奈々穂ちゃんは、そうしていいんだ」



 君は、泣きたいだけ泣ける権利がある。



「ううん、せんせぇこまらせたくないもん。だから、せんせぇの前でだけはぜったい泣かないの。いっしょにいたいから……ななほのこと、みすてないでね」



 みんな、みすてちゃったから。



「……」



 私は思わず、彼女を抱き寄せようとして……それを踏み留めた。してはいけない、そんなことは。ただ、治さなければ。



 ああ、喉の奥が熱い。



 



 



 



 



 あの患者さんが病院を抜け出した。慌てて、手の空いてる人は探しに出たけど、見つかるとは思えない。彼女が、どこに思い入れがあって、どこに行きたいのか。わかる人なんていない。



 憲邇さん、以外は。



 その憲邇さんは今、奈々穂ちゃんの治療中。しばらくは動けない。とりあえず話だけ教えて、行きそうな場所を教えてもらう。そこにいるといいけど……



「あれ?」



 院外に出た、すぐ傍に彼女がいた。素足のままだ。「どこ行ってたの! 心配したのよ?」



「……」



 彼女はただ、虚ろな瞳で一瞬だけこちらを見て、すぐに地面に戻した。目もくれず、病院へ戻っていく。……本当に、よかった。また、自殺しようとしたのかと思った。



 彼女に付いた傷は、もう、見たくない。



 白磁のような白い透き通った肌は、脆さの裏返しだと、思う。その上、あんまりにも細い。もう少し、食事もきちんととってくれるといいのに……



 憲邇さんは奈々穂ちゃんを病室へ帰して、詳しく話を聞いているところだった。主治医なのになにを見ていたんだって、別の医師が怒鳴りつけてる。でも、あんな患者さんのこと全部わかるなんて、無理よ。



「三時間……かなり遠くまで行ったのか」



「どう責任を取るつもりなんだ」



「? きちんと治療する以外に、責任の取り方があるのか?」



「なっ……ふざけてるのか!」



「今は病室に?」



「お前……! なにもなかったからいいものの、これでどこかで自殺でもしようものなら」



「しないよ」



 憲邇さんははっきりと言う。「彼女は自殺なんてしない」



「わかるかよ、なにもわかってない、お前の言うことなど」



「ああ、確かに。そうだな、いつ踏み切るかなんて誰にもわからないし……確かめるためにも話がしたい。今どこに?」



「話もできてないくせによく言うよ。病室に戻ってる」



「ありがとう」



 こっちに来た。忙しそう。これじゃ、私の誕生日も一緒なんて無理かな……



小林(こばやし)さん、後で話があるんだ。いいかな?」



「えっ、は、はい」



「じゃあ、後で」



 軽く手を上げて、足早に彼女の元へ歩いていく。……本当に、どうしてああ言い切れるのかしら。あんなにたくさん、傷がある子なのに。



広子(ひろこ)ちゃん、誕生日はどうすんの?」



 遅い昼食兼早めの夕食。(いずみ)先輩はサラダをぐさぐさと突き刺し続け、大量にフォークにくっつけていた。



「一応、お休みですけど、憲邇さ、先生は忙しそうですし、空くかどうかもわかりませんし」



「でも今のところお休みでしょ? 二人っきりでいちゃつけばいいじゃん」



「……先輩は、あの人のことはどう思ってるんですか」



「だーれ? おちびちゃん? それとも女子高生?」



「メイドさんです」



 あー、とむしゃむしゃフォークを口に入れる。「たふかに、二人っきりはむぶかふぃーか」



「お行儀悪いですよ」



「うるさいなー」ごくん、「広子ちゃんはお嬢様すぎんだよ。もうちょいフランクにさ、砕けなさいな」フォークをびしびし。



「そう、ですか?」



 さっぱり、自覚はないんですけど。



「同じ土俵で戦っても、向こうにはぜってー勝てやしないって」



「……そう、ですけど……」



「納得するなよ……じゃあもう、同棲しちゃえよ。二年くらいさ」



「できたらしてます」



「いっそ二人目のメイドになる」



「あ……」



 そっか。そういう手も。「あるかなって顔をすんな。父親込みでお世話になろうなんて、ずーずーしーぞ」



「で、でも、先生なら受け入れてくれそうな気が……」



「甘いよ、それは甘い甘えだ」



「う……」



 確かに。大体、「父親のことも詳しく話してないんでしょ? まずはそこから、お互いに知り合わないと」



「そうですね……」



「ま、そのためにもお誕生日は空けててほしいよね。二人っきりでお祝いか、無理なら、みんなでお祝いしたいかんね」



「……はい」



 よし、後でお話とも言ってたし、今から行こう。またお昼抜いてるんだったら、た、食べさせてあげる!



 けど、目当てのお部屋を二、三あたっても憲邇さんの姿はなく、まだお仕事に精を出してるんだったらいい加減にしなさいって、叱って……あげたいけど。



 通りがかりの人を何人か捕まえて、今は例の、飛び出してしまった患者さんのところにいるはずだって、教えてもらう。お礼を言って、でも、そこにいるのにお邪魔は無理かな、と思って、件の病室の前には立った。



「……」



 なにも聞こえない。重い、空気? 様子を見るのも、いけないかな……



「あ、小林さん? これ、深町(ふかまち)先生に渡しといてくれる?」



「え」



「恋人でしょ? どこにいるのか、探してくれる?」



「……はい」



 相変わらず、あの人は面倒くさがりだ。手を抜けるところは抜く。それと、私と憲邇さんをそういう仲だって、ずいぶん前から勘違いしてる。今は、半分当たってるけど。



「……」



 相変わらず、音が聞こえない……? あれ、なにか、書いてるような、かすかな音が聞こえる。なにかしら……



 なるべく静かに扉を開けると、中にいる二人の男女と、床一面に広がる紙の数々が目に入った。どの紙にもなにか書かれてる。憲邇さんの筆跡と思しきものがほとんどで、残りが彼女のものと思われる、薄い字だった。



「あの」



 憲邇さんは振り返って唇に人差し指を当てる。そして持っていた白紙にさらさらと書き殴って、私に見せた。



『なにか用?』



「……?」



 どうして、わざわざ筆談を? 私の疑問を感じ取ったのか、そのまま次の紙に、『今はこっちのほうがいいんだよ。どうしたの?』と書き記した。



「……」



 彼女は無心に同じような白紙になにかを書こうとしていた。私のことなど、気づいてもいない。とりあえず、今は用事だけね。



『ありがとう。後でね』



 と、ファイルを受け取って、また紙に書く。まだまだかかりそう。私は一礼をして、扉を閉めた。



「……」



 何時間も、ああして。疲れを、せめて私には、見せてほしかった。



 



 



 



 



 広子が出て行ったのを確認して、『ごめんね』と言う。彼女は反応しない。よかった。怯えてはいないみたいだ。



 自傷行為を行うことが悪いことだと、はっきり言える人物は幸福な人物だ。それがどれだけの幸せであるか、知っておいて欲しい。



 人間は弱く、脆い。ともすれば甘えととられることも多いが、しかし、自傷行為は病であると言える。



 彼女の腕にはたくさんのリストカットの痕、そして、アームカットの痕がある。見たことはないが、もしかしたらレッグカット、或いは他の部位を傷つけているのかもしれない。隠すような長い服、そして手袋。今は靴下も履いているが、出て行ったときはよほど慌てていたのか靴下も履かずだったそうだ。



 まだ中学二年生……尤も、今年はまだ学校には行っていないが。



 世の中が病んでいる、などというのは私の分野ではない。ただ、こういった患者さんが増えているのは事実だ。



 そして、理解されていないのもまた。



 ご両親の入院させるという選択も、あまりいいとは言えない。しかし、せめてそうして監視の目に置いて欲しいというのも、理解はできる。……いや、言い訳だな。所詮、子供が反対していないのなら病院側は受け入れる。私が担当していたのなら決して頷きはしなかったろうが、彼女の前の担当は許可したのだ。私がこんなことに意味はないと、ご両親に話しても聞き入れてはくれなかった。



 ならば、できるだけのことをするしかない。



『ヒーローショーって知ってる? テレビでやってる子供向けの番組のキャラクターを、実際に見られるショーなんだけど』



 彼女は答えない。ただ、俯いたまま、なにかを書こうとじっとペンを握って。



『この前すぐそこでそのヒーローが引ったくりを追っかけてるのを見たんだ』



 彼女は反応しない。



『ちゃんと捕まえてたんだ。すごいよね』



 彼女は反応しない。



『君にはヒーロー、いる?』



 彼女は反応しない。



 終始この調子だ。だが、まだマシだとも言える。まったく反応がないわけではなく、時折、紙に書いて返事をしてくれる。そっけないが、それでも反応があるだけいいと言える。前の医師はまったく相手にしてもらえなかったのだから。



 不意に、彼女はペンを滑らせた。なにかを書いて、でもすぐくしゃくしゃにして捨てた。同じような紙くずが部屋にはたくさんある。こうして筆談をすると、所謂書き損じはどうしてもたくさん出てしまう。でも、書いてくれる。私はそれを待った。



 待つ間手持ち無沙汰だったので試しにとペンで描いていると、彼女は何度も何度も書いては捨て書いては捨てを繰り返していた。なにを、そんなに書いているのだろう。少し、唇を噛んでいる。目が曲がっている。



『無理して書かなくていいよ』



 首をかすかに振った。や、やった。初めて、反応らしい反応が返ってきた。今まで(とはいっても精々が二ヶ月だが)なにを言ってもダメだったのが、ようやく……やはり、この子には筆談というのは有効なのだろうか。



 やがて、ペンを置いて用紙をじっと見つめる。ぐっと目を瞑って、それを回転させた。



『あなたが、わたしにとってはヒーローです』



「……」



 細い、綺麗な字で書かれている。私は今まで描いていたものを横に置き、慌てて返事を書いた。



『どうして?』



 また、すぐにペンが走る。今までにない反応だ。どう、したのだろう。目が変わった。



 これを……書くのに、あんなに、頑張ってくれた。……嬉しい。こんなにも嬉しいと感じたのは、久方ぶりだ。ヒーローと言われたことも単純にだが、それよりも、私のことを、他人を、どう思っているか。それを教えてくれた。彼女のことを知る上でそれはとても重要だ。もちろん、彼女自身のこともより知っていかなければならないのだけれど。



 きっかけがなければ、人は中々変わらない。それを作れたのは、嬉しいことだ。



 またしばらく、彼女は書いては丸めてを繰り返した。今度は少し早く、見せてくれた。



『わたしを、怒らないから』



「……」



 返事を書く。『ありがとう。でも、怒る愛もあるんだよ』



 首を振る。目に見える、動き。ここから、ここからだ。ここから治療が始まる。



『わたし、わかります。たくさん怒られてきたから、わかります。自分の都合で怒る人と、わたしの都合で怒る人。わたしを怒る人は、ほとんどが自分の都合です』



「……」



 違う、と言えたらいい。少なくとも、家族はと。だが、そちらのほうが違うのだ。子供は敏感だ。彼女の言うとおり、怒る、叱る際の理由に私情を挟むものが、今の大人は多すぎる。自分の側の都合を孕んでの叱りが。



 彼女の家族は想っての叱りをしていたのかもしれない。しかし、今はしない。叱ることも褒めることもしなくなった。



 無関心という、最悪の関心を抱いたのだ。



 叱られる理由がもちろんある。一つは彼女が話さないからだ。口も動かせないのかと、怒られる。しかし、動かさないのと動かせないのは違う。彼女とて、初めからそうではないのだ。話せないように、育ってしまった。育てた、学校の教師と両親。悪いのは彼ら大人であって、子供ではない。子供の小さな世界の、数少ない大人たちが原因だ。自分たちでそう育てておいて、うまく育たなかったからそれに怒りを感じているようなもの。ふざけるな、だ。彼女の要因もある? いや、ない。ないのだ。誰がこう育ちたがる? 最終的に自傷行為を行おうとする? 変わろうと思ったに決まっている。このままではいけないと思ったに決まっている。だが、抑圧はいつまでも続いたのだ。先の例で言えば、話せないのだから話しなさい話しなさいと言うだけで、それが追い込んでいることに彼らは気が付いていない。彼女がそのときどんな想像をしているか、考えたこともないのだ。



 言えない自分が、低レベルな人間なんだと(・・・・・・・・・・・)怒られて当たり前なんだと(・・・・・・・・・・・・)、思ってしまう。仕方ない、仕方ないと自分に言い聞かせ、怒られるべきだと考え、結果、されるがままに耐えるようになる。謝らないほうがいいと(・・・・・・・・・・)、考えてしまうのだ。謝ったって、許してくれない。こんな自分を(・・・・・・)許してくれるはずがない(・・・・・・・・・・・)、と。恐らく同時に、もし謝れたならという想像だってしているはずだ。しかしこれもまた同じように、思ったとおりのことも言えない(・・・・・・・・・・・・・・)自分はダメな人間なんだ(・・・・・・・・・・・)、と考えてしまう。



 尤も、これも一つの仮説に過ぎない。彼女と彼女の環境を調べて辿り着いただけだ。間違っている可能性もある。自傷行為を行う人は自分を極端に卑下する傾向がある、というのは凡例で、彼女がそうであるということを、現時点で判断を下すのは早計だ。しかし、そうと思われる節は数多く見受けられた。彼女に対しての迷惑を、彼女は表情を変えず受けている。例えば、こちらの不注意でぶつかったり、難しい名前の読み方を呼び間違えたり。そういうことをされても、言われても(謝罪されなくても)仕方がない、と諦めたような顔をしている。なにをされても、自分(・・)なら(・・)当然(・・)()()()、と思える表情を、する。この年で、してしまう。



 自傷行為を行う子供ではないが、似たような子供を見てきただけにわかるのだ。文句を絶対に言わない。不快感を露にすることなど欠片もない。なのに、感謝の意を表すことはする。するのだ。誰もあまり気付いていないが、かすかに頭を下げる。お礼は言えないが、体で、口は動かないから、体の一部で、表現する。……誰も、私も殆ど気が付かないが。今日のこともそうだ。話せないのなら、筆談ならできるかもしれない。それがうまく当てはまった。



 もしかしたら、今日の外出もなにか理由があったのかもしれない。できれば訊ねておきたいが……



 かける言葉を、私は失っていた。



 誰か一人、彼女のためを想って怒った人がいれば、違うと言えるのだけれど。それを言うには、私は彼女に対して知らないことが多すぎる。私が怒ったとて、それは医者としての責任でしかない。なにも変わらない。誰か別の立場の……いや、それでも怒るべきか? しかし、想えているのか? それは医者なだけ……



 書けないでいると、彼女は急に目を見開かせた。視線が、隣に置いた紙に向いている。ああ、これか。ほぼ完成していたので、彼女に手渡す。



「……?」



 今まで見たこともないほど、大きく瞳を開いていた。驚いているのか? こんなものに。



 こちらを窺う。手元に視線を戻す。また上げる、戻す。そして、丁寧にベッドに置いてから、また書き出した。



『これ、もらってもいいですか?』



『もちろん』



『ありがとうございます』



 彼女はまた、その紙を持ち上げ、じっと見つめる……かすかに、



 顔を、綻ばせた。



 私が描いた、彼女の似顔絵のように。



 それがどれだけ、彼女にとっての不幸なのか、考えるまでもなかった。たったこれだけのことが、初めて見せる笑いの原因だということ。他愛ないやり取りを、していない。誰とも。



 そうか。原因は単純だ。話した(・・・)こと(・・)()ない(・・)から(・・)、話せないんだ。友達も家族も他人も、なに(・・)()作れなかった(・・・・・・)から(・・)話せないん(・・・・・・)()



 一見、彼女の環境は普通だ。ごくごく当たり前の家庭。父も母もおり、別段貧しいという訳ではない。暴力を働かれていたわけでも、いじめを受けていたわけでもない。しかし、しかし! それがいけない、それ(・・)だけ(・・)()()いけない(・・・・)、子供だっている。十人十色なんだ。それぞれみんなが、特別なんだ。特別に育ててあげるべきなんだ……!



 私は少し震えながら、書き記す。



『どうかな、かわいく描けているかな?』



『はい。本物よりずっと、かわいいです』



『違うよ、私は君の魅力を、紙に写しただけなんだ』



「……」



 なぜかそこで彼女は表情を暗くし……しまった! くそっ、どう、言ったらいい? 私なんかかわいいはずはないと、思い込んでしまっている子には。



 ……ダメだ。うまい言葉が浮かんでこない。書くしかない。そのまま書くしか。



『君はかわいいよ』



「……」



 彼女は力なく首を振り、信じられないほどの乱暴な殴り書きで、『出て行ってください』と書いてきた。私はせめて謝りの言葉を書こうとして、彼女が涙ぐみ始めていることに気付く。……くそっ! 仕方なく、その場を去った。



 扉の向こうには広子がいた。私が急に出てくると驚いたのか、視線を彷徨わせている。



 ……耳を澄ましてみる。嗚咽の音、以前聞いた、本当にかすかな嗚咽の音……聞こえない。泣くまでには至っていないのだろうか。本来なら、こういうときこそ傍にいて話を聞いてあげたいものなのに、私が原因ならそれもできず……地団駄を、踏みそうになる。



 いや、今日は進展した。ここから進んでいけばいい。長い目でみなければ。焦っては、いけない。



「……あ、あの、どうでした?」



「ん、うん。少しは、前に進めた気がする」



「そうですか……すごいですね。前の人は、さじを投げたのに」



「そんなことはないよ、そんなことは……ありがとう、相手をしてもらって」



「えっ」



「誰か、呼びに来ただろう? 静かにって、後にして欲しいって」



「……気づいてたんですか」



「あれだけ静かにしてればね……じゃあ、行こうか」



 後ろ髪を引かれるが、しかし彼女だけを相手にしていていい訳もない。頭を切り替えなければ。



 道すがら、彼女のことも話しておく。驚いていた。言質をとってから、別れる。



 まだ、今日は終わらない。



 



 



 



 



 こっちの心配は実は余計だったって、ひどい人。最初っから二人っきりができるんだったら、早めに言ってほしかった。



 でも……嬉しいな。大抵、小さい子たちがいるから二人っきりは珍しいし。誕生日……どこか、ドライブでいい。山でも湖でも行って、のんびり過ごすだけで……



「できたら、お父さんも紹介したいけど」



 自宅は、うん、呼びたくないなぁ……散らかり放題な私の部屋なんて、見せたら幻滅まっしぐらだし。



「誰に?」



 目の前に、誰かがいた。う、いけない。思わず口走ってたみたい。



 彼は木谷(きたに)さんで、外科医をやっている。今帰るところみたい。



「あ、いえ、こっちの話で……」



「ふーん? 君、この後時間ある?」



「え?」



「話があるんだ。聞いてくれよ」



 形相がかなり、大真面目だ。木谷さんがこういう顔をするのははじめて見るかも。



「え……ええ、いいですけど」



「じゃっ、そこの喫茶店で待ってるな」



 手を上げて去っていく……話、って、なにかしら。私、この後も結構かかるんだけど。



 目的地。待ちぼうけしていた子は、私が現れるとぴょんぴょん飛び跳ねた。



 この子の髪は、悔しいけど絶品ね。こうやってお手入れをしてるとよくわかる。若いだけじゃない、なにか秘訣があると思うな。



「ね、奈々穂ちゃんは、どうして私に髪触らせてくれるの?」



 このときだけは、泣いたりしない。どうしてだかわからないのよね。



「んー、だって、せんせぇにさわってもらいたいから、せんせぇにしてもらうとダメでしょ?」



「じゃあ、どうして私ならいいの?」



「なんとなく」



 なんとなく、か。それくらいなのね、五歳くらいって。



「だって、おねえさんかみ長いでしょ? だったら、とくいかなって」



「ありがと」



 一度自分でやろうとしてめちゃくちゃになってしまい、また大声で叫んで、なんとかかんとか試しに髪を整えてあげると、治まったことがある。目が覚めてすぐの時期。誰も彼もに、当り散らしていた頃。



 今はまだ、まともなのかもしれない。憲邇さんの前では、おとなしいのだから。



「はい、おしまい。じゃあ、ご飯持ってくるね」



「うん」



 もう彼女は私と憲邇さんだけが担当している気がする。ん? いいのかな? ちょっと手のかかる、二人の子供みたいな……ああ、いけないいけない、患者さんを、そういう目で見ちゃ。



 でも、憲邇さんの養子にでもなったら、治療も含めてしあわせになれると思う。あの親戚の方々とじゃ、苦しいだけ。



 きっと……今みたいに、泣き続ける一方。



「奈々穂ちゃん、大丈夫?」



「……泣いちゃった……やっぱり、ダメ……くるしいよぅ……」



 私は、慰めるように頭を撫でようとして、憲邇さんの役割だ、と出した手を引っ込める。「あいたい、あいたい……はなれてくよ……どっかいっちゃうよぅ……うああああああん! うあああああああああああああん!」



 はっきり言って、ただのだだっ子の癇癪だって、みんな言う。五歳児にしたって泣きすぎる。そんな同僚が多い。



 私が少しでも、彼女に対して優しくあれるのは、私が母を亡くしていることが大きいと思う。肉親を亡くしたことがあれば、人はちょっとだけど、他人に優しくなれると思う。それも、彼女のように似たような経験をしてしまった人になら。



「大丈夫、先生はどこにも行かないわ。あなたのために、ずっと傍にいる」



「うぅ、うぅ……ねぇ、おねえさん、いっしょ、ねて?」



「え? そ、それは無理よ。私もお家に帰らないと」



「ううう……さむいの! ここ、白くてさむいの!」



 大丈夫、大丈夫だから……何度言ったか知れない、定型句を繰り返す。なにもこもっていないことに気がつかない振りをして。



 結局、泣き止ませるのには食事が冷めるくらいの時間が過ぎてしまう。彼女はまだ少し嗚咽を残して、たどたどしい手つきでご飯に箸をつける。私はなんの気なしに言い繕う。



「でも、偉いね。ご飯ちゃんと食べれるんだから」



 彼女は、食事もままならないほど苦しんでいるんだから。



 この子は、泣きながら笑う。



「えへへ、ありがと……ななほのこと、せんせぇ以外でほめてくれるのおねえさんだけだよ」



 ……そっと、近くに寄る。



「そんなことないわ。奈々穂ちゃんがいい子にしてたら、みんな褒めてくれるわよ」



「そっかなぁ……じゃ、がんばろっかなぁ……」



 こんなにも、笑顔が可憐なのなら、憲邇さんが抱きしめようとするのもわかる気がする。でも、どうしてあの人は止めたのかしら。



 私は、躊躇しないでぎゅうっと抱きしめた。



「おねえさん?」



「こうすると、寒くないでしょ?」



 彼女の手が、私の腕に触れる。



「……うん。さむくない……ねぇ、ななほの、お母さんになってくれる?」



「え」



 強く、つかまれる。「せんせぇはこいびとがいいの。お父さんはいらない。ねぇ、ななほのお母さんになって?」



「……」



 深く考えることもなく、「うん、いいよ」と答えてしまう。



 また、ひまわりのように笑って、



「ありがとっ、お母さん!」



 今度は向こうから、抱きついてきた。



 女は、自分より年下を見るとは母性を刺激されると思う。教えるべき相手、守るべき相手なら。



 支えるべき、相手なら。



「お母さんにこいびと……つぎはおともだちがいいなぁ……」



 父親は要らない、というのは恐らく襲われた記憶によるものなのね。無意識に避けてる。



 私は思わず、自分から寝つくまで傍にいて、手を握っていると言い出してしまった。彼女がまた、笑う、笑うので、よかったと思ってしまう。



 寝息を立てた後も、ずいぶんここにいてしまった。……やがて、彼女から「あいたい、あいたいよ……」と「せんせぇ……」という言葉が出てくるまで。



 治るまで、一体どれくらい……



 結局いつも憲邇さんが帰るのと同じくらいの時間になる。その段になってようやく、人を待たせていることに気がつく。急いで支度をしても、もう外は真っ暗だった。



 木谷さんは私の姿を確認するとすぐ立ち上がってくれた。「ごめんなさい、遅れてしまって」



「いや、いいよ」



 彼も忙しい身の上なのに、私に一体、なんの話かしら。



「単刀直入に、俺と付き合って欲しい」



「ごめんなさい、私好きな人がいますから」



「君が好きなのは深町だろ? あいつはこの前、制服着た女子と腕組んで歩いてたぞ?」



 誰だろ、千歳(ちとせ)ちゃんかな? 「あの人にとって、学生は子供ですよ」



「それだけじゃない、たくさんの女と同時期に付き合ってるんだ」



「でも、それでもいいんです。いつか振り向いてもらえるって、信じてますから。私一人だけを捕まえてくれる日がくるって。それまで自分を磨かなきゃって、楽しいし」



「俺なら、今すぐ応えてあげるのに!」



 少し、アイスティーを回す。



「ダメです。胸の大きい人が好きなら、もっといい人があなたにはいると思います」



 胸ばっかり、見ちゃダメですよ、なんて。



「そんなことは!」



「私こう見えても面食いなんです。それも偏った。深町先生のような人が、好み。だからごめんなさい」



「あんなやつと付き合ったって幸せになんてなれっかよ!」



 でも、私はもうずいぶん、幸せを感じていますよ? あの人の残酷さ、揺れる優しさを知って。二人でできることが増えて、息が少しずつ投合してく。それはたとえようもないくらい、幸せです。



「それはもし、幸運にもそうなれたときに考えます。今は、恋させてください。多分今が一番、幸せなんですから」



 本当は、恋してるときよりも幸せだと思える。苦しいときは増えた。嫉妬なんて、しっぱなし。だけど、でも。



「想うことの幸せは、誰にも邪魔されたくありません」



 たとえ、憲邇さんにだって。



「……そうか。君みたいな素敵な女性が、どうしてそこまで想っていられるのか、わからないな」



「ありがとうございます。でも、私は失礼な女ですよ? 今の台詞、頭の中じゃ先生に言われたことになってますから」



「俺だってそうだよ。ちょっと勘違いするようなことを言われたら、それが君だったらって、考えるさ」



「光栄です」



「……なぁ、あいつ、子供がいるんじゃないのか?」



「いませんよ?」



「そうか。いや、この前幼稚園くらいの子と手を繋いで歩いてるの、見たからな。もしかしたら、誰かの連れ子なんじゃないかなって」



「あら、最近先生はそういう方とお付き合いを?」



「最近じゃないが、三ヶ月くらい前はそれくらいの年に見える人と連れ添ってたぞ」



 三ヶ月……みゆちゃんたちとこうなる前ね。今度、先輩に訊いてみよう。



「そうなんですか……年上の方が好みなんでしたら、私にチャンスは薄いのかも」



「これ、言うと気分を悪くするかと思うんだが、言っておく。あいつは年の差なんてなにも気にしないよ。以前に付き合ってた女、老いも若きも関係なし、だ」



「カッコいい人は、大抵好色です」



「そう、ろくでもない」



「私はバカな女ですから」



「ったく、それは慎ましいんじゃなくてただ自分を低く見てるだけだぞ? 正当に自分を評価できないのは君の悪い癖だ」



「バカな女ですよ、私は」



 六人ごと、それにだって、耐えてるんだから。



 甘い言葉で全部忘れるくらい、私は今、酔ってるから。



「泣かされたら、いつでもこいよ」



「はい。それはぜひ」



 彼の苦笑も、初めてのものかもしれない。この人と私はそれくらい接点が薄い。視線ばかり感じて、それしか記憶にないから。



 木谷さんが私の拙い演技を見抜いたのか見抜いてないのか、憲邇さんでもない私にわかるはずもない。けど、多分見抜いてたらもっと別の言葉があるか、諦めるはず。諦めずにこいよ、イコール待つよ、ということなら、それは嬉しいけど。今は、まだ。



 車が低い音を出して夜の街に消えていく。彼はあまり、押してくる人じゃないみたい。あれからすぐ帰ると言い出して、席を立っていった。男のプライドは、今回は我慢してもらって。



 もういい時間。真っ暗なカーテンはできたら高い山の中で見てみたいかも。誕生日……行けたらいいな。



 その日までしばらく、我慢しよう。



 



 



 自分一人の決意というものは儚いものです。本当に。守りたい、こうしたい、という願いは、大抵叶いません。がっくり。



 というわけで私はお休みの日曜日、みんなと一緒に憲邇さん宅に集合しているのでした。もちろん、メイドさんも含めて。



 私がこっそり、家事をするコツを教えてもらおうとしたら、「毎日してればできるようになりますよ」と大変参考になる意見を頂いた。お願いします、爪の垢を煎じて飲ませてください。



「ねーねー泉さーん、この前言ってた、憲邇さんのつきあってた人教えてよー」



 お茶菓子をみんなでついばんでいるところに、まゆちゃんはあっさりと子供の無邪気さで切り出します。メイドさんの目の前で。



「んー、でもねー、目の前にお嫁さんがいるからねー、ちょっとやめといたほうがいいかなー?」



「だ、誰ですかっ、お嫁さんって!」



「……」



 当の本人が驚いてる。全員の視線が一点集中してるのに気づくまで、彼女はとっても焦っていた。



「え……わ、私ですか? いえ、あの、私はただのメイドで……」



「嘘つけ、一つ屋根の下で暮らしてるくせに」



「そーだそーだ!」



「……」



「え、ええ? 私はてっきり、この中の誰かを、選ぶのかと……」



「あら、せんせーがあなた以外を選んでもいーんだ?」



「いーんだ?」



「それは、ご主人様の自由ですし、だ、大体、メイドが家主に、そういうの、いけませんし……」



 こだわるなぁ。最初に好きだからメイドを買って出たんじゃないのね。ただ働こうとして、そのうち好きになってった。私とは逆パターンだ。



「じゃー教えてもいっかなー。見てみて、まずなんといってもこの人」



「うおー! すっげー!」



 みんなが一斉に泉先輩の携帯を見ようと集まっていく。こっそり、一番最後に良子さんも。



「あ、あたし、この人知ってます。モデルやってる人」



「お、静香(しずか)ちゃんは知ってたか。そう、モデルさんなのよー。今も苦労してるらしいけど、当時から人気でさー。どこをどうしてせんせーと知り合ったのか知りたいよねー」



「やっぱり、診察を受けにきて偶然ですか?」



「んにゃ、やけ酒飲んで潰れてたところを偶然見かけたせんせーが介抱したんだって」



 知ってるじゃないですか。先輩は当時のことを思い出したのか少し笑いながら話を続ける。



「出会いは最悪でさ、ふらふらになって倒れそうになったところをせんせーが支えて、そこへ、まあ、吐いちゃったのよね」



「ああ……」



「彼女結構、お酒に呑まれることはなかったみたいで、すぐ酔いが冷めたんだ。んで、平謝りに謝って、加えて、口止めをしたの。『お願い、このことは誰にも言わないで!』ってね」



 前から思ってましたけど、先輩って人のものまねうまいですよね。その人のこと知りませんけど、イメージぴったりですし。



「どうしてそんなこと言うの?」



「モデルさんってのはね、あー、あたしもよく知らないけど、イメージが大事なんじゃないかな? 酔っ払ってるところを知られたら幻滅されると思ったんじゃない?」



「芸能人ですからね」



「で、彼女も頭の中ぐるぐるしてたんだと思うけど、お金出しちゃったのよ。これで黙っといてって。で、まあそこからは想像どおり、せんせーは受け取らず、『そんなものはいりませんよ。安心してください、言いふらそうなんて輩がいたら私がぶっ飛ばしてあげますから』って言ってね、ごほん、ちょっと二人の会話に入るわよ……」



『寧ろ、あなたのような人のあられもない姿を見れてお金を払いたいくらいです』



『ふざけてるの? こっちは生活が』



『あのですねっ』



「ここでずいっと顔を近づけんの」



『あなたがどんなところで生活しているのか知りませんが、そんなことをすると他人を傷付けるばかりか、あなたが一番傷付くんですよ? ここには、あなたのライバルのような人はいません。安心してください』



『……どこにだって、マスコミはいるの。そんな無防備になんてなっちゃいけないのよ』



『バカですね。そんな風に四六時中気を張ってて生きていけるはずありません。寧ろお仕事もうまくいかないんじゃないですか』



『なっ……あたしのことも知らないようなやつに言われたくないっ。お生憎様、こう見えても仕事はとっても順調です』



『そんななにかにずっと怯えててですか? 私からすればこれから先大失敗するのが目に見えてますよ』



『なんですって……! 名刺よこしなさい、どうせろくな仕事についてないんでしょ』



『そういうことを言うのもいけませんっ。また自他共に傷付けてますっ。はい、これ名刺です』



『ふんっ、これあたしのよっ……! え、あんた、医者?』



『そうです。あなたはモデルさんなのですね。道理で美人な訳だ』



『……』



「あの、先輩、先輩って中高バレー部じゃありませんでしたっけ」



 完全になりきっちゃってる。演劇部でもしていたのかって思ってしまう。



「うお、しまった。つい熱くなっちゃって。まあ、こんな感じなの。じっと見つめ合い、その後は二人の世界よ」



「……ごめん、意味わかんない。そっからどうして恋人になれるの?」



「うーんそーねー……その人はせんせーが酔っ払ってるって言いふらすと思ってたのね、でもせんせーは、言いふらしたり悪いことする人たちばかりじゃないから、信じてほしいなって言ったんだ。あ、モデルの世界は、噂だけど結構悪いことや厳しいことがいっぱいあるみたいだから」



 静香ちゃんが頷いてる。そう、なのかな? 華やかな世界は裏表が激しいの? 医療の現場は見た目どおり、血みどろだけど。



「ケンカしてるように聞こえたかもしれないけど、でもね、せんせーが怒ってるのは彼女のことを想ってなの。この後にね、それに気づいた彼女が急転直下にくるくる落下したのよ。話すと長くなるから割愛するけど。せんせーの魔の手にかかれば、百戦錬磨のトップモデルだって丸裸なの……おい、みんな頷くなよ」



 え、だって、本当だし。「まの手って?」



「まゆちゃんは知らなくていいの。急転直下はすぐ落ちてくことで、百戦錬磨はすごい人、って、覚えてればいいわ」



 ううん、私語彙がないなぁ。



「そっか、恋に落ちるっていうもんね」



「結局、あんまり優しくされたことない人って、ちょっと優しくされるとほいほいついてくのよ。バッカでー」



「せんせはちょっとじゃありません」



「と、とってもやさしいです」



「そだけどさー、いっくら精神科医だからって甘えすぎだと思うよー? ほんとに疑ったり最初利用しようと思っただけなのかねー?」



「え?」



「あ、いやさ、最初はさ、自分の美貌と体だけを求めてるのかもとか、疑ったとかさ、お医者様なんだから利用して誘惑じみたことで援助してもらおうとか考えてたって言ってたけどさ、んな感じなかったんだよねー」



「……あ、あの、泉さんは、このモデルさんと親交があるんですか?」



「あるよ。友達友達」



 やっぱり。詳しすぎると思った。



「じゃ、じゃあ、今度サインもらってきてくれませんか?」



「任せとけ。なんならせんせーの昔話つきで」



「聞きたい聞きたい!」



「私もぜひ聞きたいです」



 千歳ちゃんがようやく喋った。「よーし、んじゃここに呼んで誰かさんにこれ見よがしに話をしてもらうかな」



 みんなの視線が集まる。彼女はやっぱり気づかないのか、小首を傾げてくれる。ふん、全然かわいくないからね! 鈍感なところまで似てるなんて、思ってないから!



「あの、でも、疑ったっていうのは本当だと思います。いくらせんせでも、モデルの世界で簡単に男の人を信じるなんて、できないと思います」



「そっかー。あたしが出会ったときにはね、既にめっろめろのめろめろだったからさー。雑誌や画面じゃ見たことない表情しかしてなかったのよねー。これみたいに。撮った後怒られちゃったけど」



 画面では、凛とした顔をしてそうなしっかりした女性が、おねだりをしてるかのように憲邇さんの腕を引っぱってく、無邪気な笑顔があった。やっぱり、髪が長く、スカートで。



「……この人、こんな顔するんだ……」



「そーそー。いつも突っ張ってる人の、素顔をさらけ出せるのよねー、せんせーは。ムカつく……いーかそこのメイド! お前のご主人様はこーゆーやつだ! いわゆる、天然のタラシだ! 八方美人だ! 気をつけろ!」



「あら、ご主人様きつい人にはきついですよ? こちらを訪ねるお客様に、結構ひどいことも言ってきました」



「あっ、てめ、自慢かこんにゃろー! くそっ、えーっと、そうそう! 広子ちゃんなんか付き合い三年だかんな! メイドさんは二年だざまーみろー!」



「……先輩……」



 ただの子供ですよ。



「ごほん。ごめんなさい、取り乱しました。じゃっ、次の人いきましょう。次の人はこれ、年上の旅館の女将」



「……え、これ、おいくつ……」



「今年で五十五だったかな。付き合ってたのは一昨年だから、五十三だと思うよ」



「……」



「次の人はこれ。その次はこれ。その次、その次、その次」



 次々と画面は移り変わるも、そこに映し出される女性のほとんどは美女、あるいは美少女だった。中にはよろしくない子もいたけど、次の画面では同じ人が別人のように美人になっているばっかり。もちろん、そのままの子もいる。



「と、いうわけです。言ったとおり、せんせーの好みに貴賎はありません。年をとってても、若くても、美人でもそうでなくても、太ってても細くても、胸がおっきくてもちっちゃくても、どんなお仕事でも、外国生まれでも、関係ありません。最後に、この人」



 現れたのは、女性にしては大きな顔をした人だった。セミロングの茶髪に、少し派手な洋服。鼻が高くて、ちょっと羨ましい。



「この人がどうかしたんですか?」



「この人、ニューハーフなんだよ」



「……」



 全員、絶句。



「以前は男だったの。それをもちろんせんせーにカミングアウトして、かつお付き合いしてたんだって。うれしそーに話してくれたよ。ね? 器が広いんじゃなくて、ただのすけべ親父なんだ、メイドさん」



「えっ、いえ、でも、それは器が広いんじゃないですか?」



「でもさ、こんなにグラマラス」



「女なら誰でもいいなら、今まで見た人たちはあんな笑顔じゃありませんよ」



 確かに。先輩の見せる写真はことごとく笑顔ばっかりだった。みゆちゃんだってそう。彼女が平時に見せる打ち沈んだ表情は、憲邇さんを見るだけで一転する。



「そーかねー。せんせーのテクだと思うけどなー」



「今度、モデルさんを連れてきてくださるんでしょう? だったら、そのときのお話を窺って、それで判断します」



「ちっ。これだけ悪い情報を流しているのになぜ落胆しない。恋は盲目だな」



「で、ですからっ、私は別に、そんな……」



「じゃあせんせーはこーやってたーっくさんの人と付き合ってきました。あなたは自分の番がこなくてもいーんですか?」



「私は……私は、ここでご主人様のお世話をできるだけで充分ですから」



「あ、告白だ」



「告白だー!」



 静香ちゃんとまゆちゃんがにやにやする。千歳ちゃんも半笑いで、泉先輩に至っては「しししし」と口を押さえて笑ってる。私も少し、口に手を当てた。



「ち、違います! どうして私ばっかり!」



「だってあたしせんせーのこと好きだし」



「あたしも好きー!」



「あたしもせんせは好きです」



「私も先生が好き」



「私も憲邇さ、先生が好きです」



「みゆちゃんは?」



「……み、みゆも、だ、大好きです……」



「良子さんだけ言ってないんですよ? ほらほら、言っちゃえ言っちゃえ」



 ぐ、と声に詰まる。うすうす気づいてたくせに。私たちは、好きだから集まってるんだって。



「……って……」



「ん? なんて?」



「……私だって! 私だってご主人様のことが好き! あなたたちの誰にも負けないくらい、ううん一番、ご主人様が好き! ずっと一緒に暮らしてきたんだから! 好きに決まってるでしょお!」



「……」



 ここで憲邇さんが帰ってきてくれたら、ドラマみたいな展開になれるのになぁ。



「負けない、負けないからね! ずっと好きだったんだからぁ! すぐ恋した、すぐ好きになったし、ずっとなにしてるか気になって、眠れなくて! だからここで寝かせてもらったら、眠れるようになったの! ご近所から勘違いされるように頑張ったんだから! 喜んでくれると思って、こんな格好もした! ま、負けないっ、もっと好きなの……」



 最後には涙が滲むくらい、大声で良子さんは叫び続けてくれた。初めて見せた、取り繕っていない素顔。追い詰められると、なにもかもを言ってしまって楽になろうとする。……私と少し、似てる。



「メイドさんって、案外子供っぽいんですね」



「……」



 しゅんとなった。赤くなってく。自分が今どんなことを言ってしまったのか、振り返って、身動きが取れなくなっていってる。



「今のを憲邇さんが聞けば早いのにね」



「む、無理だよ、まゆちゃん」



「良子さんはね、先生にしか見せない顔もあるけど、私たちにしか見せられない顔もあるのよ」



「ふぅん。よくわかんないや」



「ま、これで本音も聞けたし、この辺で勘弁してやろー。しかしせんせーもひどいよね。二年も同棲してながらいまだに気づかないなんて」



「……」



 気づいてて、でも私たちのことがあるから言ってないだけだと思います。



「……そうなんです。ご主人様は全然私のことなんて見てくれなくて……普通、私に会う男の人は胸ばっかり見てくれるのに、ご主人様だけ、見てくれないから、悔しくて……で、でも、だからいいなって、思うようにもなって、でも悔しくて……」



 そこも少しの、シンパシー。



「今さら、メイド服をやめて私服で来るなんて、できませんし、この前お見舞いのときにようやく、私服を見せたのに、け、結構、胸を強調してたのに、全然、見てくれなくて……」



「だから言ったでしょー? せんせーは胸なんてかんけーないの。せんせーはね、なにか一つ、勝負できるところがあればいい。もちろん胸でもいいんだけど、そーね、たとえば、料理が上手だとか、聞き上手だとか。そういう、できそうなのでいいのよ」



「あの、先輩、良子さんは一つどころか、全部で勝負できると思います」



 良妻賢母の好例です、まさに。



「……すまん、忘れて」



「あ、あの、みゆは、そのときいたからわかります。け、憲邇さ、さんは、良子さんに、で、でれでれしてました」



「……ほんと?」



 みゆちゃんはお世辞とか慰めとか、言える年じゃない。「ほんとです。む、胸はあんまり見なかったかもだけど、か、顔は、いっぱい、見てました」



「……そっかぁ……」



 やっぱり、そういうところに自分じゃ気がつかないのね。この鈍感、朴念仁! 微笑むな!



「大体、既にせんせーから信頼というおっきなものを勝ち取っているものが贅沢ゆーな! 弁当まで作りやがって、頼む、あたしにも作らせて」



「先輩……」



「はい。それくらいでしたら」



「ついでに寝室も教えてよ」



「それはできません」



「せんせーって朝シャンする?」



「なにが言いたいんですか」



「うーんじゃあねー、一回メイド服を着させてよ。それでご奉仕するからさ。あ、胸が足りないのは貸してちょうだい」



「引っぱたきますよ」



 掛け合いが続いてく。ふん、そうだそうだ。寝室まで知ってて、贅沢言わないでほしい。お世話をしてお金もらえるだなんて、逆よ。憲邇さんのことを好きな人の中には、お金払ってでもお世話したいって人がたくさんいるんだから。誰とは言わないけど。



 時計の金が五回鳴る。そろそろ空が赤くなり始める時間だ。



「そろそろやめとこうか。夕食作んなきゃね」



「そうですね。おかげで落ち着きました」



 多分、狙ってやったと思う。どっちもね。



「一応真面目な話でさ、そういうの、どこで売ってんの?」



「これは自分で作りました」



「作った? くそっ、お前なにもかもスキル高すぎだぞ」



「市販のものは、その……質が……」



「そっちも買ったのかよ。どこで?」



「通販です。さすがに店頭は恥ずかしくて」



「この前車でどらい」



「引っぱたきますよ」



 私とみゆちゃんを残して、五人はさっさとキッチンへ向かう。動こうとしないみゆちゃんに、「どうしたの?」と声をかけると、また、暗い顔をしていた。



「……みなさん、長くて、うらやましくて……みゆはまだ、一ヶ月とちょっとだし……」



「みゆちゃん、憲邇様は時間じゃないわよ」



「でも、でも……ほかのなにも、勝てないもん。なにか一つ、勝負できるとこ、ない。どうしてみゆといっしょにいてくれるのか、わかんないもん……ううう……」



 ああ、泣き出してしまった。憲邇さんの悪い人柄か、傍に集まる女の子は泣いてばっかり。



「みゆも、良子さんがよかった……かわいい格好して、そばでごほうししたかったぁ……捨てられたら、どうしよう……」



「みゆちゃん……」



 不意に、電話が鳴る。みゆちゃんのポケットから。彼女は慌ててそれを取り、すぐに出た。「憲邇さま?」



『みゆかい? 私』



「はい、みゆです!」



『仕事が一段落したから、急にみゆの声が聞きたくなってね、電話しちゃった』



「あ、ありがとうございます! あ、あの、憲邇さまは、どうしたら、みゆを好きになってくれますか?」



『みゆ、私は今もずっとみゆを好きだよ』



「でも、でも……」



『みゆ。私がみゆを好きになるのに、みゆがかわいい格好をしたり、ご奉仕したりするのが必要な訳じゃないよ』



「えっ」



『もちろん、してくれたら嬉しいよ。でもそれだけじゃない。みゆには勝負できる、魅力的なところがたくさんあるんだ』



「……ない、です……」



『一つあげるとしたら、唇だね。みゆの唇が好き』



「くちびる……」



『触るとぷにぷにーって、するだろう?』



「ぷにぷに……」



『キスしたくなるから、好き』



「……」



『キスしたくなるから、好き』



「……わ、わかりました」



『キスをしたいのは、好きな相手だけなんだよ。いい? 次言ったらお仕置きだからね』



「は、はい」



『よろしい。みんなに伝えてくれるかな、これから雨が降りそうだから、車庫使ってって』



「は、はい。わかりました」



『みゆは、お泊りだよ。いいね?』



「はぅ、はいっ!」



 電話が切れる頃には、みゆちゃんはごしごしと目を拭けるくらいには元気が出ていた。……ていうか、聞こえちゃったな。今日、みゆちゃんするんだ……



「すごいね、憲邇様は。なんでもお見通し」



 集まってるのは予想つくけど、みゆちゃんのことをこうも理解してるのはすごい。



「はいっ、すごいんです!」



「おーい、広子ちゃん、みゆちゃん、手伝ってよー」



「はーい」



 それじゃ、精を出しましょうか。



 



 



 予定はよく崩れるものです。特に、憲邇さんは崩れてばっかり。私と……一日過ごしてくれるって、言ったのに。何組か患者さんや、そのご家族が訪ねてきて、その相手。時間になっても来ないと何度も確かめた携帯に、お詫びのメールが届いて……がっくりする。



 ただ、一緒に過ごすだけでいい。最近はずっとそう。一緒にお仕事ができるのは嬉しいけど、それは私だけじゃない。二人だけの時間がほしい、私は欲張りだ。



 もし、許してもらえるのなら、本当に憲邇さんのお家に厄介になりたい。今のお仕事をやめて、同棲みたいなこと……しちゃ、いけないっか。あの子たちもいるのに、私だけそんなことできるわけない。



 だからさ、ずるいよね、メイドだからってさ、半同棲みたいなことしてさ、自分の作ったお料理をおいしいって言ってもらえるなんて……



「おいしかったなぁ、あの人のお料理」



 やっぱり、男心をつかむのはお料理なのかしら。ううん、あの人はまるでメイドさんに気がないって、メイドさんだって言って……いたけど。メイドという仕事の間柄だから色目で見ない、だけなのかも。本当は、抱きたくてたまらない、のかな。わからない。あの人はみんなを愛してくれている。それも、私が今まで付き合ったどの人よりも深く、強く。私が今の状況をほかの人に言ってしまうことを、それが危険なのに軽く口止めするだけ。たとえばみゆちゃんを抱いてるなんて他人に知られたら一大事なのに、まるで気に留めていない。なにか対策をとっているのかとも思ったけど、そんな素振りはまったくなかった。



 覚悟がある。なにもかも背負っていく覚悟が。



 ……その苦しさを、少しは見せてほしいのに。あの人は私たちをほとんど頼ってくれない。それが悔しくて、悲しかった。



 ただ好色だから抱いているだけ。あの人はそう言う。ただの変態だよ、こんなのは本物じゃないよって言う。それはそうかもしれない。でも……なにか、違うと思う。



「ね、ずっとここにいるけど、誰か待ってんの?」



 少なくとも、視線が胸にしかきてないこの人たちよりは、よっぽど愛しさを感じる。



「そんなやつほっといてさ、俺たちと遊ぼうよ」



 それは真正面に見つめたりしない。でも、ちらちら、ちらちら見てる。どこか見る振りして、一緒に見てる。わかりやすい。このくらいの、二十歳前後の男って大体そうだ。十台半ばならまだ、かわいげはあるけど。



 どうして……あの人は瞳を逸らさないのかしら。



「なに、そんなに俺のこと気になる?」



「……私、こう見えても一児の母なんです。悪いけど、主人を待っているの」



「……え」



 私はにっこりと笑った。



「ごめんね、火遊びはまた今度にしようかしら」



「あ、ああ、そう。そっか。わり、じゃあな」



 そそくさと彼は去っていった。ふぅん、不倫願望はないんだ。結構、若い男の人は多いと思ってたけど。



「……一応、半分しか嘘じゃないし」



 子供は、いるといえばいる。同じくらい背のある、五歳児が。



 なにか、できることがないかしら……あの子のために、なにか……そうだ、みゆちゃんとまゆちゃんに、会わせてあげよう。同じくらいの年の子なら、心開いてくれるかもしれない。



 もう何度目になるか知れない、携帯を開く。新着メールは、なし。どうしよっかなぁ、帰ろっかなぁ……



 着信する。「もしもし」



『広子か? すまん、今日はお前の誕生日だってのに、悪いんだが……』



「どうしたの?」



『ヘルパーの人が葬式に出にゃならんそうなんだ。代わりも、今日はいないらしくて』



「そっか。わかった、すぐ帰る」



『……すまんな。本当に』



「なに言ってるの、もう私たちしか家族はいないんだから。言いっこなし」



『ありがとう。代わりと言っちゃなんだけど、今夜は豪勢に』



「あー、またお寿司頼んだでしょ? もう、男の人って加減知らないんだから」



『あ、ああ、そうか? そんなに……と、とにかく、待ってるぞ』



「はいはい」



 電話が切れる。ふぅ。これで完全に二人きりはなくなっちゃった。せっかくの誕生日。もう二度とない、二十三歳の誕生日。



「……センチメンタルだなぁ、私」



 気にしちゃダメダメ。来年がある。あの人とならきっと、それ以上の長い付き合いができるはず。



 あーあ、せっかく、ふわふわのスカートなのにな。



「すんません、地元の人?」



「? ええ、そうですけど」



「あの、よくこの時計台待ち合わせに使う?」



「ええ、それなりに……どうしたの?」



 急に話しかけてきた子は多分中学生くらいの、丸坊主にした浅黒い男の子だ。きょろきょろと辺りを見渡し、「セミロングの、同い年ぐらいの女の子見なかった?」と焦っているよう。



「いえ……」



「そっか……くそっ、どこ行ったんだあいつ」



 グーをパーに叩きつける。



「そうね、この辺で待ち合わせといったらここぐらいかな」



「マジか……ありがと、助かったよ。あね、お姉さんも待ち合わせ?」



「待ちぼうけ。今日はもう、無理みたい」



「なに言ってんだ、日はまだ高いぞ」



「向こうの人がね、お仕事なの。だから、無理かなって」



「ふん、大人ってのは大変だな。会いに行きゃいいじゃん」



「……そうね、でも、会いに行った先だと、二人きりになれないから」



「じゃあ呼べばいい。押してダメなら引く。基本だろ」



「……」



 呼ぶ……私の家に? 今まで訪ねる一方で一切私の家のことを言ったりしなかったけど……誕生日はいい機会。だったら……



「そう、ね。試してみようかな」



「おう。んじゃな」



 彼は子供らしい走り方で、少し危なっかしく、堅い地面を蹴っていった。



「……よし」



 こうなったら、やるだけやって玉砕し……やっぱり、玉砕しない程度にしよう。



 携帯を開いて、愛しい人のアドレスを出した。



 



 



 ふわふわでよかった。憲邇さんすごく喜んでくれてる。



「いえ、小林さんはとても美人です。ああいう格好がよく似合っていますよ」



 ほうらみなさい。お父さんは趣味が悪いんだから。



「しかしなぁ、子供っぽいとは思わんのですか? もういい年だし、いい加減あんな格好は卒業して欲しいものですよ、親としては」



「うるさいなぁ、私はいつまでも若くいたいの」



「元々童顔なんだからせめて服装くらいちゃんとしなさい」



「なにおう」



「まあまあ、いいじゃありませんか。第三者から見て、今の私服が悪いとは思えません。許してやってください」



 ほうらほうら! へへ、バーカ!



「それは、あなたが広子を好んでいる補正が入っているだけですよ」



「ちょっ、ちょっとお父さんやめてよ!」



「なにを言う、誕生日に家に招く人が、いい人ではないというのか?」



「ち、違うわよ、そんなんじゃ、ないったら……」



 ちらっと窺う。どう、ですか、私、やっぱり演技へたですよね? あ、ちょっと首振ってくれた。



 憲邇さんは一区切りついたからって、ちゃんと呼んだら来てくれた。一度ご挨拶に伺いたいと思ってくれてたんだって。よかった。本当に……少し、家のお掃除を、友人たちに頼んだけど。



「先生はうちの娘をもらってくれる気は、ないのですかな?」



「もう、やめてったらっ」



 憲邇さんはにっこり笑って、「彼女の仕事振りはこれからもずっと見ていたいと思います。それくらい、優しい温かな人だと感じております」



「はぐらかすということは、深読みしてもよいと?」



 憲邇さんはただ、にっこりと笑った。



 確かに。素敵な人だとは思ってる、けど、ずっとお仕事を見ていたい、イコール、専業主婦には迎え入れたくない。でも、共働きという選択肢もあるし、やっぱり好きかもしれない。深読みはいくらでもできる。



「もう、いいじゃないそんなこと。それよりごめんなさい、父の世話を頼んでしまって」



 名目上、そうなってる。



「ううん、そんなことないよ。君にはいつも本当にお世話になってるから。今日ぐらい、お返ししないとね」



「ありがとうございます。先生こそ、もう少しお休みしたほうがいいと思いますよ」



「そうかな? 君みたいな人が傍にいて、疲れるほうがどうかしてるよ」



 うわ、すごいきざな台詞。この人は羞恥心がないのかしら。



「だってこっそり、私が居眠りしてたら上着かけてくれたり、肩揉んでくれてるから」



 ……うわ、全部漏れてる。ちっ、先輩め。その上であんな台詞言うなんて、ますますきざっぽい。



「ありがとうね。今度は本格的に全身マッサージを頼もうかな」



「そうですね、有給を一日増やしてくれるなら考えてもいいです」



「手厳しいな」



 くすくす笑い合う……あれ、お父さんがすごくにやにやしてるぞ。「なに?」



「いやいや。それじゃあ、私はそろそろ休むとするよ。借りた本の期限がそろそろなのでね。先生、ついでに寝室にご案内しときましょう」



「はい」



「お父さん、一人で大丈夫?」



「大丈夫だよ、一人で布団に入れる。心配するな」



 車椅子が動いてく。私と憲邇さんは一瞬だけ目を合わせて、小さく頷き合った。



 父は事故で両足が動かなくなった。同時に母も亡くし、今は私と二人だけ。仕事も定年退職していたから、家で一人老後を送っている。もちろん一人だけでは暮らしがままならないからヘルパーさんを雇っているけど、父はそれに頼りたがらない。その人のお世話になるよりは、家族にお世話になりたいみたい。多分、遅くに生まれたせいで子離れがまだできていないんだと思う。そのくせ、早く結婚しろだの、いい人を連れて来いだの、うるさいんだから。生きているうちに孫の顔が見たい、なんてのがよく口をつく。まだしばらく先です。私と憲邇さんが、作りたいって思うまでは。



 結局お父さんが強引に頼んだ五、六人分はゆうにあるお寿司を片づけていると、憲邇さんが戻ってきた。「父になにか言われませんでしたか?」



「ん? 言われたよ。広子は整理整頓ができないから、仕込んでやって欲しいだってさ」



「う……け、憲邇様だって、整理整頓は苦手でしょう?」



「まあね。デスクもごちゃごちゃだよ」



「私もです。お掃除ロボットがあればいいんですけど」



「確かに」



 またくすくす。「じゃあ、お掃除が苦手な広子のお部屋を見てみたいな」



「……いいですよ。変なこと、してくれるんなら」



「ちょっとだけね。うん、そんなかわいい格好してくれた分は」



「こ、こういうの、好きですか?」



 スカートを持ち上げ、ひらひらさせる。完全に私の趣味全開の、小さいお……花柄のティアードスカート、オフホワイト。父はこの年にもなって花柄なんてと、よく口をすっぱくする。今日くらい、と思って着たいものを着てみた。それがこの人の好みなら、それ以上のことはない。



「好きだよ。その服を着た、君のほうがね」



「……そういう台詞は、みゆちゃんたちだけにしてあげてください。私はいいです」



「やだ」



「もう」



 この人は甘甘が好きみたい。困ったものだ。



「私は……好きって言ってくれたら、それでいいです」



 プレゼントも本当はいりません。あんな高級そうな食器セットなんて……それより、



「嫌だよ。好きと言うだけじゃ足りない。物もあげたい。これから、たくさん必要になるかもしれないからね」



「……いいですよ、どちらでも。たくさんお客さんをこの家に呼んでもいいですし、たくさん……子供を作っても」



 あなたがいるなら、シングルマザーになるのは外面だけ。きっと大切に育てられる。



「そういうつもりじゃ……ごめんね、まだその気はないよ」



「そう、ですか……あの、私、実は……」



 奈々穂ちゃんのことを言う。憲邇さんは、ひどく驚いてた。



「本当に、彼女がそう言ったの?」



「はい」



「そう……」



 目の前の人はじっと私を見つめ、目を伏せ、閉じ、最後に少しだけ眉を寄せたあと、目を開いた。



「わかった。君はどうするつもりだい? できる(・・・)かな(・・)?」



「はい」



 なぜか、迷いはなかった。母親役ということも、重病患者のケアも。



 できる気がする。この人となら。



「……ありがとう。私はそんな君も──」



 夢のような言葉。でも、響きは確かにそこにある。



 だから、あの子も笑えるんだ。



「私もです。奈々穂ちゃんが望むなら、私は彼女一人が恋人になっても……」



「本当に彼女を好きになったら、そうするよ」



「……」



 でも、似てる気はしますよ。



 私は先に扉を開いた。「そのときまでには、ほしいなぁ」



「まだ早いよ」



 そうですけど。



「私、男の人のひげを剃ってあげるの、夢なんです」



「?」



「一緒に暮らして、赤ちゃんの笑顔を見るの」



「ああ、それでひげを?」



「はい。今日、それだけはしたいな……」



 できたら、本当に一緒に暮らしたいけど……愛人でいいから、傍にいたい。傍にいれないくらいなら、奴隷でもすりついてたい。なにをしたって傍にいれないなら……



「君の仕事振りは、いつまでもすぐ近くで見ていたいな」



「……はい」



 離れてしまいたい。けど、でも、あなたのその笑顔は、いつまでも瞼の裏に残っています。それが私にちょっとでも向けられてるなら……そっと、袖をつまむ。



 あなたを、想うことがしあわせであり続けると、信じられます。



 この人はそっと、手をとって先へ歩いていった。



 ずんずん、ずんずんと。



「でも、ひげを剃るのは他人にしてもらうと難しいような……」



「そうなんですか?」



 無精ひげとか、憲邇さんのちょっと見てみたいのに。かなり童顔な憲邇さんがちょっぴりワイルドに。疲れた顔でたばこをふかしたり、なんて。あ、いいかも。



「試しにやってみましょう? ぜひ生やしてください」



「毎日自分で剃る習慣がついちゃってるからね。たまに忘れると葛西さんがして」



 口を噤む。「……ごめん」



 もう、そういうこと言わないでいいのに。ようし、意地悪してやろう。



「ほんとーにあの人とはなんでもないんですか?」



「なんでもないよ」



「もう夫婦なのに?」



「ええ?」



「だって、してることは夫婦と一緒じゃないですか。家のことは任せて、夫は仕事に精を出し? 妻は家事をして、お客さんをもてなして、子供の世話。家に帰れば、同じ食卓を囲んで、同じ屋根の下で寝て。どこが夫婦じゃないっていうんですか?」



「……いや、それは違うよ」



 ふふん、困ってる困ってる。



「千歳ちゃんも言ってたとおり、近所の人はほとんど夫婦だって思ってます」



「違う、恋人がいるって」



「だから葛西さんが恋人だって思ってるんですよ。知らないでしょ憲邇様は。あのお家を訪ねて、葛西さんがいて、それで諦めたって人、たくさんいるのに」



 あんなにわかりやすいのに、気づかないなんて嘘だ。気づかない振りをしてるだけ。自分の気持ちに、気づきたくないだけだと思う。もう、そうなら言ってほしい。楽になりたい。



「違うよ」



「どこがですか? みゆちゃん言ってましたよ、この前、私服姿のあの人にでれでれしてたって」



「彼女は誰にだって親しみを込めて接している。私にフレンドリーさを求めるのは、それが彼女にとって自然だから。……私は彼女のこと、言われるまでなんとも思ってなかったよ。本当に、そういう目でみたことはない。あるなら、とっくに踏み越えているさ」



「……そう、ですね」



 ちょっと、ついつい言い過ぎちゃったかも。憲邇さんがいけないんですよ、謝ったりなんかするから。……ううん、いけないなぁ、またムカムカしてきちゃった。



「でも、あの人が好きなら、一緒になってくださいね。あなたのしあわせが、私のしあわせです」



「……」



「私たちを捨てても、いいですよ。一筋になって、世間からも祝福される、仲睦まじい暮らしをしてくれたって……」



 この人は立ち止まり首を振った。やっぱり。



 あなたの残酷な優しさは、ときどき私を傷つける。わかっててもどうしようもないことがある。



 でも、私自身それを求めてる。こんな……絡みあった関係だから。



 なにも言わず、でも、これからのことに亀裂を入れようとした私に、憲邇さんはただ背中を押してくれた。



 私の部屋に入った。友人に頼んで綺麗にしてもらった部屋。……私の趣味が一目でわかる。超がつく少女趣味。この年になってまだ、ぬいぐるみがたくさん置いてある。テディベアなんて大好き。ピンクや黄色や赤色ばっかり。フリルや刺繍が大好きなんです。ごめんなさい。



「こういう中に広子みたいな白を着た人がいると、すごく華やかに見えるよね」



「そ、そうですか?」



 確かに、下はオフホワイトに花柄は薄いピンク系だし、上もアイボリーのチュニック。やっぱり少女趣味で、レースが多いけど。この部屋も。



「君には似合ってるよ」



「……ありがとうございます」



 へへ、嬉しいな。



「じゃあ、スカート見えるまでめくって」



 どこに隠してたのか、デジカメを取り出した。いつもみたいに。



「……はい」



 毎回憲邇さんはこれを要求してくる。あなたがめくってくれても、いいのにな……結構、恥ずかしいし、まだ慣れないから。



 憲邇さんはなぜか、頻繁にシャッターを押していた。



「後で撮れなくなるから、今のうちにね」



「?」



「次は一回転」



「はい」



 これはもう慣れた。慣れたっていうか、私はロングスカート、短くても膝丈までしか履かないので、全然恥ずかしくないから。ペティコートが見えるくらいは許せるし。今日も丈は足首まである。私は脚にまるで自信がないから、やっぱりこうやって隠したい。良子さんとか、ずるいよね、本当。



 また、耳に響くくらいのシャッター音。



「なんだか、広子って一回転してスカート翻らせるの、似合うよね」



「そうですか?」



「ダンスとかやってみると似合うんじゃないかな。スキーもいいけどね」



 そうですね……軽いダイエット気分で、やってみるのもいいかもしれません。私運動神経もありますし(スキーも滑れますから)、もし踊りを踊れるようになれば、この人を楽しませることもできるかもしれないけど……



「私と一緒に、習いに行く?」



「えっ、しゃ、社交ダンスですか?」



「なんでもいいよ。一緒に踊れるのをさ」



「は、はいっ、それはもう、ぜひ!」



 できれば、それは私だけの繋がりにしてくださいと、視線を送ってみる。



「そうだね、踊れるようになった後、ふりふりのミニスカートで踊ってくれたら、いいよ」



「み、ミニですか……」



 アンダースコートみたいなものを履かせてくれるんでしたら、いいですけど。履かせてくれなさそうな気がする。



「あの、私、膝丈より短いのって、高校のときも履いたことなくて……こういうのしか、ないんです。似合わないかもしれませんけど、それでもいいですか?」



「本当? 珍しいね……広子はやっぱり、箱入りなんだ」



「と、とんでもないです、そんな……」



「でも、いいとこのお嬢様だってみんな言ってるよ」



「……私、元々夢見がちな女の子だったんです。童話のお姫様に、憧れてばっかりで……いつか王子様が現れてくれるから、そのために自分を磨いてようって……女の子女の子したものにしか、興味がないんです。泉先輩みたいには、なれなくて……ご、ごめんなさい、ああいうのがいいのなら、変わりまぷっ?」



 頬を両側から引っぱられた。「泉は素があれだから似合ってるだけだよ。広子がやったって、不釣合いなだけだ。いい? 広子は広子だから、綺麗なんだよ」



「……」



 それが見た目のことを言ってるんじゃないくらい、わかるから。私はこの人のことを好きだって、カッコいいって、思うの。



 つまんでた指が、今度は添えられて、



「広子はお姫様でいいんだよ。それが似合ってる」



 私もつい、添えてしまう。



「……じゃあ、王子様に、なってください」



 あなたはちゃんと、私の前に現れてくれました。



「承知いたしました、リトル・プリンセス?」



「わ、私、小さくなんて……」



「かわいいお姫様って意味だよ。ね?」



 それ、おかしいですよ。



「じゃあ、王子様は紳士だから、一緒に踊った後に手を繋いで寝るだけにしようか」



「前言撤回します」



「冗談だよ」



 頬にそっと口が寄る。私もそれを味わった。



「よし、張り切って撮ったから喉が渇いたな。なにか飲み物ある?」



「えっと、そうですね……」



 う、しまった。ワインしかない。どうしよう、お酒飲みだって、思われるかも……



「ちょっと、取ってきますね」



「いいよ、ワインで」



「はぁ……」



 グラスと一緒に持っていくと、憲邇さんは並々と注いで、一気に、



 私の胸にこぼしてった。



「……」



 冷えているワインが体温を奪っていく。……ん? 私、なにされ……



「ああごめん。濡れちゃったね。早く洗わないとシミになっちゃうよ。ほら、脱いで脱いで」



「……?」



 脱がしたいなら、いつもはそっとしてくれるのに。あ、そうか。舐めたいんだ。憲邇さん、キス魔な上に舐めたがりだし。



 結構な量を注がれたので下着まで入り込んでる。全部、と窺うと即座に頷かれたので、裸になった。肌が少し、ぶどうの色を持つ。



「じゃあ、このまま洗いに行かないと」



「……え」



「まだ父君が起きているうちにね」



「……ええっ?」



「だって、眠ってしまった後にしたって、興奮しないだろう?」



「あ、ああ、あ……」



 こ、こ、この人は……! な、なんでこんなとんでもないことが思いつくの?



「ほら、早くしないとバッテリー切れちゃうよ」



「あ、あの、せめて、録画だけは……」



 にっこり笑って、唇を二文字分だけ動かす。なんとか大切なところは隠せているけど、でも、どうせ前に撮られてるし、今さら……と、諦めたりはできない。踏ん張るところは踏ん張らないと、私じゃない。



「その、ビデオ止めてくれたら、いきま」



「行かないの? 別にいいよ? 明日もずっとこの格好でいてもらうから」



「……」



 き、鬼畜よ……鬼畜だわ……



 渋々、渋々! 私は濡れてしまった洋服を取り上げ、それでまた体を隠しながら、扉の鍵を、開けた。



 五月の夜は、普通は心地いいはず。なのに、丸裸の廊下は、びっくりするくらい、寒かった。ワインのせい。



「ああ、ちょっと。後ろ姿だとお尻しか見えないから、私が前に行くね」



「……」



「こういうのって、大抵後ろから撮ってるんだけど、絶対前からのほうがいいと思うんだよなぁ……」



 先輩、お願いですから、今度憲邇さんの性癖をきっちりレクチャーしてください……心の準備がないと、折れそうです……



「ごめんね、後ろ見えないから、派手に転んじゃうかもしれない。逐次言ってくれる? 大きい声で」



「……」



 囁くように言うと、絶対に大きな声で聞き返す気だ。きっとそうだ。変態、変態っ。



 そろりそろり、私はゆっくり忍び足なのに、憲邇さんはずんずん歩いてく。後ろ歩きなのに、躊躇なく歩幅を大きくして。制止の声をなるべく大きな声で言うたび、残念そうに立ち止まる。そして、ドアがあるたびに私に開けさせる。絶対に、先に開けてはくれず、もしもお父さんがいたらというケースに対処しようとは、しない。恐怖と恥辱で、一歩一歩が本当に重かった。もう少しで洗濯機が置いてあるところまで(時間にしてわずか五分もなかったけど)なにごともなく辿り着いたとき、普通に泣きそうになってしまった。



「もうお休みしているのかな? 残念だね。今度は、ちゃんと見てもらおうね」



「……」



 洗濯機の操作は、もちろんだけど体を隠しながらできるはずはない。どうしても、見えてしまう。せめて、胸にしよう、うん。こんなところで、もういや。



「……洗い終わるまで、ここにいろなんて、言いませんよね?」



「うん。風邪引くと大変だからね。じゃあ、戻る前に父君にお休みの挨拶をしていこうか」



「……」



 このとき私は、大真面目にこの人が正気かどうかを疑ってしまった。



「会わなくていいから、扉越しにお休みなさいって言うだけでいいよ。そうだね、何回かやった後くらいにちゃんと会って、見てもらおうか」



「あの、冗談ですよね?」



 にっこり笑って、今度は四文字を結んだ。



「無理、です……お父さんは、よく寝る前に私と話をしたがるんです。あんまり時間、取れないから」



「そうなの? じゃあ尚更だよ。行かなくちゃ」



「本気で言ってるんですか?」



「大丈夫、最悪私が助け舟を出すよ。もしドアを開けられそうになったら止めるから安心して。そうならないように誘導、してもらうけど」



「着替え」



「いいから」



「……」



 よし、わかりました。腹をくくります。もし、見られちゃったらそのときは開き直って、公認にしてやる! 堂々と家でいちゃいちゃしちゃうから! とりあえず抱き合って裸隠せば多分大丈夫! 翌日から、絶対空気おかしくなるけど!



 善、かなにかは急げで、とにかく早足で父のところへ向かう。なぜなら、憲邇さんが眠ってたら部屋の中まで入ってそれを確認しなさいと言ったからです。



 お父さんの部屋の前に立つ。明かりはまだついてる。まずそれにほっとして、深呼吸、深呼吸を繰り返していく。……勇気を振り絞って、震えながら、二回ノックをした。



「ん? 広子か? どうした?」



「……そ、そろそろっ、寝る、からっ、あ、明かりっ、ちゃんと、消しといてよねっ」



 うわ、上ずってる。お願い、返事だけにして……



「ああ、わかってる。お前は、最近本当に母さんに似てきたな」



 後ろを見る。許してくれない目をしていた。



「そ、そりゃあねっ。お父さんと、お母さんの子供だからっ」



「ま、母さんのほうが美人だけどな」



「う、るさいわねっ」



 ダメ? ダメですか? ああ、ダメって言ってる。



「お前ももう少し淑やかにならないと、あの人と一緒にはなれんだろうに」



「だからっ、そういうんじゃないってば……!」



 ここで少し、仕返しを思いつく。



「私の好きな人は、全然私の気持ちに気づいてくれなくてっ。どれだけ見つめたって、勘違いしてくれないの。それで合ってるのに、全然悟ってくれない。その上、親しい同僚としてお食事には誘ってもらってばっかりで、嬉しくて、大好きなのに、告白したって気づいてくれない、鈍感でにぶちんのとうへんぼくなんだから!」



 ちらっと、後ろを見る。なぜか、憲邇さんはおもしろそうに口に手を当てていた。



「ほう、そうなのか。お前がそこまで言うということは、よほどなのだな……どうだ、久しぶりに飲みながらでも話さないか? 少しなら大丈夫だろう」



「……」



 真っ青になってしまった。やぶ蛇。そうか、だから笑って……あ、あの! 助けてください!



「ちょっと待ってなさい。今開ける」



 このぶどう色の変態極まりない状況を見られるかという恐怖で、私の体はまったく動こうとしなかった。唯一動いた目でべそをかきながら陳情しても、微笑みっぱなしの人は動こうとも口を開こうともしなかった。



「あ、あああ、あのねっ、もう寝ないと、明日早いからっ」



「いいじゃないか、少しくらい」



 鍵の、開く、音が、した。



「──」



 反射的にノブに手を伸ばした。冷たい金属に触れる前に、後ろから大きな足音が聞こえてくる。



「あ、いたいた。小林さん、明日のことで話があるんだけど、いいかな?」



「うううん! 全然だいじょおぶ!」



「ああ、ごめんね、ご家族で話が? じゃあ、後でい」



「いいのいいのいいの! 仕事優先だから! 行きましょ行きましょお願い行きましょう?」



「広子?」



「ごめんねお父さんっ、またあとでねっ? ほら、行きましょう憲邇さんっ」



 思わず動き出した足のままに、憲邇さんを引っぱって走ってしまった。



 扉を閉め、鍵をかける。安心して気が抜けると、へたりこんでしまった。



「興奮した?」



 するわけないじゃないですかあ! と、返事することもできない。大切なところを押さえたまま、軽く、嗚咽を発してしまう。



「……ひどい……」



 ぽつりと、恨みがましい声で告げてしまう。ひどい人。最低。信じられない……



 そっと、頭に大きな手が乗る。



「よくやったね、広子」



「……だ、騙されませんよ」



 滲む目できっと睨む。この人は笑みをたたえながら、まるで気にせず唇を奪いにきた。



 それから、床の上でまぐわおうとする。押さえてた手をどかされ、閉じてた脚を開かれ、愛撫をされていった。



「……ひどい……いや……やめ、って……」



 言葉とは裏腹に、触れられる指先に身を委ねつつある自分がいた。彼の熱い吐息が、肌にかかるたびぞくっとする。乾いたワインのあとを拭き取られていくと、敏感に体が反応して、うずく。恥丘を舌が這っていくのは、ぞっとするほど下腹部が高鳴ってしまう。たまらず、両腕で彼を抱え込んでしまった。



「……ぁ……っ……ぅ……」



 声が漏れそうになるのを、ぎゅっと締めつけて押さえつける。できるだけ、変な声はあげたくない。喘ぎたく、ない。我慢して我慢して我慢して、ただ名前を呼ぶの……



 ただ、どうしてかしら、今日はなんだか、いつもより感じてしまう……今まで、こんなに気持ちいいことなかったのに……早く濡れて、しかも量が多い気がする……この人のやり方もいつにも増して強く柔らかい。もしかしたら、初めて、イッちゃう、かも……



「……はぁ……はぁ……」



 もう、挿れてほしい。早くして、ほしい。言いたい、してくださいって。でも言えるわけなかった。そっと、コンドームのあるほうを見てみる。彼の目もそっちに向き、理解してくれたみたいで取ってきてくれた。



「じゃあ、猫のものまねしてよ」



「……え」



「にゃーんとか、言って欲しいな」



「……」



 そ、それは、とてつもなく痛々しい気が……「ど、どうして、急に?」



「うん、なんだか、広子がもの欲しそうな目で見てくるから、ちょっと意地悪をしたくなっちゃった」



「……」



 バレてる。



「だって、やっぱり広子もあんなことをして興奮したんだろう?」



「してませんっ」



「じゃあ言って?」



「……」



「やってくれたら、明日一日ミニスカート履いてていいよ」



 それご褒美じゃないじゃないですかぁ! 泣きそうな顔をすると、憲邇さんはにっこり、「それで一日デートしようよ」



「えっ」



 ぐいっと、顔が近くに寄って。



「明日も休みを取ってさ、二人っきりで」



「……」



 卑怯ですよ? 私たち、多すぎてやる機会少ないからって、つけこんで……



「ごめん。冗談だよ」



 口づけされる。ぐいっと引き寄せられて。私は目を開けたまま、閉じて押し合いに動く顔を、じっと見つめて……



「……にゃ、にゃあ」



 一瞬離れた隙に、小声で囁いてしまう。あまりのバカバカしさと、恥ずかしさに、思わずそっぽ向いて……添えられた手が、とても熱くなってる気がする。ああ、私、なんてこと言ったんだろ……



「もう一回、言って」



「……む、無理です」



「言って」



「……」



 両手で顔を持ち上げられて、じっとまっすぐ、いつも憲邇さんが見るように、でも今日は熱く、奥の奥まで見つめられる。卑怯だ、ずるだ、反則……



「にゃ、にゃあん」



 途端、思いっきり抱きしめられる。強く強く、今までのどれよりも強く、抱きしめられる。うわ……気持ちいい……



「かわいい、広子」



 かわいく、ないですよ。痛いだけです。せめてまゆちゃんたちなら、まだ似つかわしいのに。



「ふふん、女性はわからないんだな。そのギャップが、かわいいんだよ」



「変態っ!」



 でも、抱いてくれるのは嬉しいです。このまましばらく、堪能させてください……



 私がもう少し背が低かったら、抱かれるときこの人の胸に顔がくるのにな……でも、いい。がっしりした、大きな体。細いと思ってたのに、きちんと締まってる。男の人。骨ばって、かくかくで。私の丸みで、丸めてあげたい。お互いの色で、混じり合いたい。



 ……やがて、待ちきれない思いを目で伝えると、ようやく憲邇さんが挿入ってきた。



「……っ……っ……っ」



 やっぱりこの人だと違う。今まで付き合ったどの人より、ぴったりだと思う。やり方も、やるたびに私がいいところをちゃんとわかってくれてる。だから、気持ちいい。私も彼の体中をまさぐってしまう。



「広子……」



「憲邇様……」



 一度突かれるとお腹に上がってくる。二度突かれると胸まで。三度より先は喉まで。それから……



 この人の温かさが私を貫くたび、上げそうになる女の声を、我慢するのがすごくつらい。空気に身を任せたい。獣のように腰を振りたい。かじるように体を、痛めつけてほしい。



 でも、それを我慢するのが、やっぱり一番気持ちいい。されるがままをただ貪る、今が一番。



「……ん……あっ……」



 頭が、ぼたつく。芯が、痺れる……



「……っ!」



 彼が射精したのがわかった。私と同じタイミング。びくついて、締め上げた。……うわぁ……すごく、気持ちよかった……



「……憲邇様……」



「広子……」



 熱い視線。それから、硬い床の上でごろごろした。ベッドには行かず、彼の腕を枕にして。彼の胸を、枕にして。後始末をしなきゃいけないけど、今は、今だけ……



 この人はどうして、したあとにすぐ寝たりしないのかしら。やることやるとすぐ寝る人が多いのに。どうして、いつも見つめあいたがるのかしら……



「そこに見たいものがあるからだよ」



「……だ、だからそういうのは、いいですってば」



 ダメ、私まだ、こういうのをあしらえるほど大人になれてない。



「ごめんね、つい言っちゃう」



「……」



 ま、いっか。



 寝心地のいい枕にうとうとして、このままだらだらするのもいいなぁと思う……ああ、毎日寝て過ごせたらいいのに。



 この人と。



「……憲邇様は、触り方が柔らかいですよね」



「そう?」



 ときどき、強くもなりますけど。



「私、は、その……最初にしてくれた、ような、その……ら、乱暴なのでも……」



「ふぅん? わかった、つまりSMが好きなんだ?」



「そっ、そういうことじゃありません! ただ、もっと、強く……」



 締めつけられる、感覚がほしい。



 憲邇さんは私の胸がぺしゃんこになるくらい、強く強く、抱きしめてくれた。



「ああいうのは苦手なんだ。でも、頑張ってみるよ」



「はい……これくらい、強く抱きしめてくれると、嬉しいです」



 苦しくて、気持ちいい。息が止まるくらい、甘い……



 拘束が、ほしいのかも。



 それと……



「やっぱり、あなたは貧乳が好きなんですね」



「そう?」



「あんまり、してくれませんでした。次からはもっと、強く、その……」



 正直、ちょっと悔しかった。



「わかった。これからはたくさん触る。今も広子が寝るまで揉み続けたくなったから」



 言うが早いか、お互いの体の間に手を滑り込ませてきた。



「……っ」



「柔らかいね」



「……ぅ……っ……」



 際限なく揉まれ続ける。感度は悪い私でも、これだけ、あっ、揉まれると……



「どうしたの、そんなに見つめて」



「……」



 言えるはずない。胸だけでも、結構、いいってこと……



「まだしたい?」



「……」



 かすかに、頷いた。



 パッと手が離れる。



「じゃあオナニーしなよ。見ててあげるから」



「……」



 やっぱりこの人がわからない。



「そっちのほうが興奮するだろう?」



「……い、いやです」



 あなたの前でなんて、絶対できません。実はかなりの、自慰好きなんて。あなたのことを想って、こっそりしてたなんて、言えない。適度に上手な自分を、知られたくない。お姫様はこんなことしないし……



「ごめん、したことないんだね」



「……」



 ちょっと嬉しい、勘違い。いつまで誤魔化せるかしら。



「ううん、私もね、したいのは山々だけど、その、体力が……」



 でも、また揉むの再開してますよ。



「そろそろ眠いし、これくらいにしといて欲しいな」



「……はいっ……」



 やっぱりデスクワークばかりだと体力がないのかしら。本当にしてくれなかったから、今度一緒にウォーキングを誘ってみよう。ただでさえ多いんだから、体力はあるにこしたことないし、ね? わ、私がたくさんしたいとか、そういうんじゃないから。



 翌朝、久しぶりにぐっすり寝ついてたみたいで、目覚ましに全然気がつかなかった。揺り起こされるまで微動だにしなかったって、憲邇さんも言ってた。



 彼に手伝ってもらいながら朝食を作ってると、お父さんが起きてきた。



「おはよう、お父さん」



「おはよう、広子。おはようございます、先生」



「おはようございます」



「あ、先生、塩とこ……あ、ありがとうございます」



「ふむ? 昨日のは聞き違いか……いやしかし、そうしていると新婚かと見間違ったよ」



 コショウが大量に目玉焼きに投入された。



「な、な、なに言ってんの!」



 ああやっぱり、私まだこういうのに慣れないわ……



「冗談だよ。そう躍起になるな。先生なんて平然としているじゃないか」



「いえ、そんなことは」



 嘘つき、めちゃくちゃ笑ってる。



「……先生。広子を、よろしくお願いします」



「だ、だからそういうんじゃ」



「広子」



 あ、きつい目。違うんだ。



「はい。できる限りのことはさせて頂きます」



「……」



 二人、穏やかに見つめあった。



 



 



 



 



 あの人だけはわたしからはなれていかない。あの人だけはわたしを怖がったりしない。



 かわいい(こんなこと)()言って(かいて)くれた人も、似顔絵(こんなこと)()描いて(して)くれた人もはじめて。



 絶対に喪失(なく)したくない。あの人の前では、いい子でいたい。



 なのに、普通に戻ってしまう。



 怖くて怖くて、たまらない……



 仕事だから大丈夫。治るまで会っていられる。そう言い聞かせられないくらい、わたしはもうダメだった。



 呆れられる。ため息をつかれる。怒られる。別の人のとこに行く。戻ってこない。戻ってこない。戻ってこない……



 こんなわたしのとこに、いつまでもいてくれるわけ、ない……!



「……」



 大丈夫、まだわたしはしあわせ。これがある。これがあれば、まだ希望はあるかもって、思っていられる。だって、



 わたし、あの人の前で笑ったことなんて、ないもの。ううん、あの人どころか。



 それを、描いてくれた。こんなにかわいく、描いてくれた。こんなに目、大きくないし、鼻はもっと大きい。顔だって、こんなに細面じゃない。でも、いいの。お医者様だから、慰めてくれてるだけでも、なんでもいい。



 もしかしたら、わたしは今が一番、しあわせなのかも。



 余っていた紙を取り出す。わたしは、頭の中に浮かぶあの人を思い出して、鉛筆を滑らせた。



 こんなの、面と向かって描いたりできない。渡すことなんてもっと無理。今描くしかない。今描いて、二つ並べて置いておくの。



 ……都合よく、今あの人が来てくれることも、妄想してる。来てほしいけど来てほしくない。だから、いつも絶対に来ない時間にしてる。なのに、妄想してる。見つかって、微笑んでもらって、ありがとう、って……



 言ってくれるわけ、ないのに。



 こんなみすぼらしい十三の患者から、なにされたってうれしいはず、ないから。



 迷惑、だよね。わたしの気持ちなんて。言ったって知られたって、迷惑なだけだよね……あなたの眩しさに照らされて、ただ束の間うつつを抜かしてるだけ、だよね……



「……ぁ、ぁ……」



 言いたい単語が、言えない。書けもしない。



 そんな日がもう、ずっと続いてる。



 またしたくなるくらいに。



 



 



 



 



 キスまだよなー、憲邇さんのやつ。すっげーキスばっかされちったよー。



「お帰り、まゆ。あれ、外で遊んできたにしちゃ、ずいぶん綺麗じゃない」



「すごいでしょ。お風呂わいてる?」



「ん、今湧いたとこ。そうだ、久しぶりに一緒に入ろっか」



「うん」



 いっぺん着たやつをもっかい着んのってなんかむずむずすんよなー。なんで憲邇さん、帰ったらまたお風呂入りなさいって言うんだろ。



「こら、こんなところで脱がない」



「ケチー」



 うちもさー、もっとおっきなバスタブがいーなー。お母さんと二人だともういっぱいだよ。



「あーあー、こんなに痣んなっちゃって。いい加減にしなよ、危ないことはさ」



「いーじゃん、死ぬわけでもないし」



「だってほら、おっぱいのとこにまでついてる。一体なにしてたの?」



 このときあたしは、してもらったふわふわ感からなにも考えず、



「ちょっとえっちなことしただけだよ。せっくすっていうんだっけ?」



 今まで見たこともない顔にゆがむお母さんに、おどろくばっかりだった。



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 第八話あとがき的戯言



 



 三日月(みかづき)まるる、以下作者「誰しもが一度は猫の鳴き真似をすると思います」



 小林広子、以下広子「嫌味ですか、それ」



 作者「こんばんは、作者の三日月まるるです。このたびは「ごめんなさい」第八話を読了くださりましてありがとうございます。今回のゲストは小林広子さんです」



 広子「初めまして、小林広子です」



 作者「先に言っておきますがすみません、病院の実際などは知らないので、看護師の方が食事を運ぶのかわかりません。栄養士の方かも」



 広子「取材に行けばいいじゃないですか」



 作者「……」



 広子「……」



 作者「では、スリーサイズを」



 広子「いやです」



 作者「実際巨乳の方はやはりグラビラモデルさんのように平均D以上なのですか?」



 広子「言いたくありません」



 作者「では泉さんに電話で聞きましょう。ピ、ポ、パ」



 広子「……86



 作者「え?」



 広子「86Dですっ。ウエストは57、ヒップは85、アンダーは67ですっ。なにか文句ありますか?」



 作者「あ、いえ、とんでもありません。すごくスタイルいいですね」



 広子「努力しました。あの人に振り向いてもらいたくて」



 作者「歩くのと走るのとはではどちらが効果的ですか?」



 広子「私の体感だと歩くほうが楽ですし、その割に効果もそれなりにありました。そちらのほうがお勧めです」



 作者「胸を大きくするにはどうすれば?」



 広子「それがわかれば女は全員、巨乳です」



 作者「そうですよね。道具や手術という手もありますが。そういえば、母親になったそうですね」



 広子「口だけです」



 作者「私は、女性というものは誰だって、多かれ少なかれ母性を持っているものだと思っています」



 広子「そういう、大層なものじゃありません」



 作者「謙遜は日本人の美徳ですね」



 広子「……自信は、ないです」



 作者「子守ができるということはすごいことだと思います。私は子供に嫌われてばかりなので、どう接したらいいのかわかりません」



 広子「叱って許して、あとは笑って一緒に遊んであげれば大丈夫ですよ」



 作者「……」



 広子「あの……?」



 作者「いえ、なんでもありません。あなたはそうしてあげてくださいね」



 広子「はぁ……」



 作者「それでは、今回はこの辺で。さようなら」



 広子「さようなら」



 



 20090318 三日月まるる



 




 




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テーマ : 官能小説 - ジャンル : アダルト

2009/04/02 00:37 | 小説COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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