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「ごめんなさい」その十二_第十二話_悪い想像は変えられない

 こんばんは、三日月です。
 次回からは二日に書きましたとおり毎月二話更新、の予定です。きっと隔週だったり三週に一話だったり、またまた一月丸々更新しないなんてこともざらだと思います。でも、せっかく拍手してくださる方がいますので、できたら一月に二話といわず、三話、四……三話更新したいです。
 もう五月ですね。五月はこどもの日があるので大好きです。
 拍手ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
 それでは第十二話です。どうぞ。













 



 十二 悪い想像は変えられない



 



 



 とうとうお母さんも言った。指輪がほしいって、あたしじゃいやだって言った。やっぱり結婚したいって。形じゃない、本気なんだ。やっぱりそうなんだ。



 そんなのすぐわかった。スカートだけになったし、食べる量も減った。朝のお化粧の時間も長くなった。憲邇(けんじ)さんばっかり見てる。裸でお風呂入ったとき、恥ずかしいけどでも、あたしとおんなじで……見てもらうの、うれしそうだった。だって、隠そうとしなかったし。



 あんなにぶったくせに。あんなにひどいこと言ったのに。憲邇さんのやさしさに甘えてる、つけこんでる。ひきょうだ。それで、あのとき言ったことやるんだ。あたしにできないことやるんだ。



「ねぇみゆちゃん、くわえるってなんのことかわかる?」



 今日は憲邇さんあたしたちと一緒にお風呂には入らない。ぼそぼそって静香(しずか)さんと話してたから、多分一緒にお風呂入って、そのときえっちするんだ。あたしはお母さんと入るのがちょっといやだったから、みゆちゃんと今入ってる。



 みゆちゃんはあたしの問いかけに顔を真っ赤にした。



「え、あ、な、なんでそんなこと知ってるの?」



「やっぱりえっちなことなんだ?」



「う、うん」



「教えてっ、お願いっ」



「……あ、あのね……お、男の人の、あそこを、お口に、入れるの。そ、それで、動かしながら、な、なめるの」



 ふぅん。ちょっとへんたいちっく。憲邇さんのおっきいから入るかなぁ……



「みゆちゃんは憲邇さんにしてもらったんだ?」



「……う、ううん。違うけど、知ってるの」



 ふぅん。じゃあ教えてもらったんだ。いいなぁ。



「お口でしゃせいされるんだ?」



「う、うん」



「赤ちゃんできるの?」



「できないの」



 やっぱり。じゃあ、ほんとのえっちじゃないんだ。



 それだと、お母さん怒らないかな。



「じゃああの白いの飲んじゃうんだ。どんな味なんだろ。甘かったら飲みたいなぁ」



「……あ、甘くないんだって。苦いみたい」



「そうなの?」



「で、でも、飲むと男の人喜ぶから、け、憲邇さまの飲みたいって言うときっと喜んでくれるよ」



「そっかぁ。いいなぁ、またしたいなぁ……」



「あ、ご、ごめんね? みゆたちばっかり」



「ううん、なに言ってるの。あたしだって指輪もらったんだよ。えっちできなくても一緒だよ」



 指輪もらったの、こんやく指輪なんだよ? あとで調べたもん。毎日ちょっとだけどこっそりつけて、にへへって笑ってる。



 今はそれだけが、あたしの支え。



 つけてほしいって言われた、あの言葉も。



 真っ赤なハートの指輪。赤い火が消えないのはそれがあるおかげ。それと、憲邇さんとキスできること、一緒に住んでること、いろんなことを言ってくれること。でも一番は指輪のおかげ。あたしにぴったりのサイズの指輪のおかげ。



 あれがなかったら、お母さんにとられちゃう怖さでまた海に飛びこんでるよ。



 お父さんでもいい。いいけど、憲邇さんがほしいって言ってくれてるのにお父さんになるのはちょっとやだ。なにより、お母さんに負けるのもや。



 お似合いなのがいや。静香さんの言うとおり二人並んで歩いてたら、お母さんがあなたって呼んでたら絶対勘違いする。この前水族館に行ったときだって、三人親子だって思われてる。



 お母さんだって、ぐっときれいになったのがいや。あたしと違ってそばかすないし、憲邇さんの前の恋人とも、今いる良子(りょうこ)さんたちとも比べてもおかしくないのがいや。三人でいるとき、ときどき前千歳(ちとせ)さんを見たとき感じたおんなっぽくなるのがいや。一緒に寝るとき、絶対えっちしてほしいっていう目で見てる。あたしもそうだからわかるんだ。あたしよりずっと色っぽくする。ずるい。



 お母さんがダメって言ったのは、ほかのどんなことより自分がやりたいからなんだ。きっとそうだ。広子(ひろこ)さんが言ってた、子供がちっちゃいときにえっちするとお母さんが怒るっていうのは、お母さんがえっちした人のこと好きだからなんだ。



 ひきょうだよ。あたしのほうが先に好きんなったのに。お母さんだってどれいにしてって言えばちゃんと仲間になれるのに。ひとりじめしようとして、一人だけ結婚しようなんてずるだ。みんなだってやりたいのに、ぬけがけなんて。



 ……でも。お母さんだって自分のしあわせ、あるんだよね。あたしだけ、わがまま言ってちゃいけないよね。それに、憲邇さんがお母さん好きになっちゃったらしょうがないよね。そうなったらあきらめよう。でも、憲邇さんがほしいって言ってるんだから、今はあきらめたくない。



 お母さんがいるとこじゃ、応援しなくちゃ。お父さんになってもいい。お母さんが苦しいのわかるから。あたしだってしあわせほしいけど、お母さんと一緒のがいいもん。そこに憲邇さんがいたら最高だな。みんな一緒にしあわせになりたい。それが一番だよ。



「みゆちゃん。絶対お父さんとお母さんにえっちしてるって言っちゃ、ダメだよ?」



 あたしんちみたいなのになったら、大変だから。



「う、うん。わかってる。憲邇さまが言いなさいって言うまで、ずっとヒミツにしとく」



 みゆちゃんなら守れそうな気がする。うらやましかった。



 それから、お互い体を洗いっこした。みゆちゃんは昨日してもらってないのか、体にあとが残ってなかった。



 今度お母さんと一緒にお風呂入るとき、ちゃんと見とかなきゃ。



 こっそりやるなら、一緒だよって。



 



 



「ね、まゆちゃん、みゆちゃん、お願いがあるんだけど、いいかな?」



 久しぶりに二人で入ったお風呂からあがると、広子さんが待ち構えていた。お母さんは憲邇さんとなにか話してる。二人だけの時間。ううん、考えちゃダメ。



「うん。なに?」



 詳しい事情を聞くと、なんだか大変な人みたいだった。



「心が五歳になることなんてあるの?」



「あるの。その子にはなにかつらいことがあって、心が五歳に戻りたいって思って、戻ってしまったのよ」



「ふぅん……それで、友達になればいいんだ?」



「うん、お願い。あの子には今、先生と私しかいないから」



 友達がいない。お母さんしかいない。そんなのは、あたしからすると考えもつかなかった。どれくらいつらい? 恋人が、だれかがほしくてたまらない?



 あたしとおんなじだ。



「その子も先生のこと好きなんだって」



「そうなの? じゃあ、してもらってる?」



「ううん、まだ先生が受けてないの。私たちみたいになるかどうかはわからない」



 なるのかな……十七歳。あたしたちから見れば完全に大人。心はそうでも二歳しか違わない。それだったら、知ると、してほしいって考えたって……



「……美人、ですか」



「うん。美人。私なんか霞むくらい」



 そういう、広子さんだって美人だと思うけどなぁ。言うと絶対否定するの。みんなそう。よくわかんない。



「胸はありますか」



「あるわね。良子さんほどじゃないけど」



 どうしてみゆちゃんがそんなことを気にするのかわかんなかった。あたしたちにおっぱいがないのは仕方ないことだって、憲邇さんも言ってたし。



「名前はなんていうんですか?」



奈々穂(ななほ)ちゃん」



「わかった。憲邇さんがするみたいにやさしくすればいいんでしょ?」



 あの人のやり方は、ずっと見てたからわかる気がする。あたしの目標で、理想なの。



「えーっと、普通にしてもいいわ。普通のお友達も必要だから」



「うん。わかった」



 女の人なら、怖くない。



「……ごめんね、奈々穂ちゃんはすぐ泣いて暴れるかもしれないから、気をつけて」



 それだけ、悲しいってこと。



 やっぱり、憲邇さんが抱いてあげるのが一番だと思う。



 あたしだってそうだったんだから。



 



 



 ノックをして声をかけても返事がなかったからそっと開けてみる。中では、窓をぼーっと眺める、肩よりちょっと長い髪の女の人がいた。あ、一回会ったことあるかも。結構病院来たしな。あたしが「こんにちは」って声をかけると、こっちを振り向いた。その顔が、涙ではれてた。確かに美人。目が大きくて鼻が小さくて唇が、なんていうか、光ってる。泣いたあとでもよくわかる。……なんだろ、憲邇さんに似てる気がする。



「……おねえちゃんたち、だれ?」



 うわ、声までかわいい。いるんだなぁ、こういうアイドルみたいな人。うらやましい。



 でも、あたしたちをお姉ちゃんて言った。ほんとに五歳になってる。体は大きいのに、おっぱいだってあるのに、どうして……



「あたし、まゆっていうの。こっちはみゆちゃん。どっちも七歳のお姉ちゃんだよ。ね、あたしたちと友達になろ?」



「えっ」



 急に奈々穂さんはこっちに身を乗り出して、ベッドの上でバランスを崩してどたどたと落ちちゃった。すぐにがばっと起き上がる。



「おたっ、おともだちになってくれるの?」



「うん。ね、みゆちゃん」



「……」



 あれ? みゆちゃんはなんでか、じっと奈々穂さんを見続けてた。どうしたんだろ?



「みゆちゃん?」



「あ、うん」



「ありがとっ! ありがとっ!」



 うわ、笑顔もいいなぁ。この顔で誘惑したら、きっと憲邇さんも落ちちゃうなぁ。



 それから三人でいろいろ話をした。やっぱり、さみしくて泣いちゃうみたい。ときどきあたしたちが遊びに来るって言うと、笑顔で抱きついてきた。……おっぱいがお母さんよりふわふわだった。五歳だから学校のこともたくさん訊かれた。早く行きたいんだって。早く行って、友達たくさん作りたい。勉強しなきゃいけないよって言うと、ちょっと悩んでた。



「おねえちゃんたちはすきな人いるの?」



「いるよ。好きな人っていうか、二人とも恋人がいるの」



 同じ人だなんて、言えないけど。でもこれは、言いたいな。



 言いたいよ。



「その人にえっちもしてもらってるの」



「まゆちゃん!」



 ……やっぱり、まずかった?



「ダメだよ、五歳なんだから、そういうこと言っちゃ」



「でも、五歳も七歳も変わんないよ」



「小さい頃にそういうことはあんまり知っちゃいけないって憲邇さま言ってたから」



 そっかぁ。そうだよね。



 でも、あたしだってできたんだよ。



「なにないしょばなししてるの?」



「あ、ごめんごめん。なんでもないよ」



「えっちなことするって、大人だね」



「う、うん。まあね……あはは」



 言っちゃったものはしょうがない。あとで憲邇さんに叱られるかもしれないけど、いいや。



 ……そだ。言っちゃった以上、これも言っとこう。



「あとね、えっちは、好きな人とやると気持ちよくて、しあわせになれるんだよ」



「そうなんだ……せんせぇ、ななほにしてくれるかなぁ」



「奈々穂ちゃんは先生のことが好きなんだ?」



「うん。だいすきぃ」



 その顔が、今日一番の笑顔だったから。



 この人もきっと同じになるんだって直感しちゃう。



「せんせぇはね、ななほをいっぱいほめてくれるし、しかってくれるの。いろんなことおしえてくれるし、やさしいし、カッコいいし……ななほといっしょにいても、ななほが泣いても、やな顔しないから」



 みんな、やな顔ばっかりするの。



「……」



「奈々穂ちゃん」



 みゆちゃんが言う。「その先生のこと、忘れちゃダメだよ」



「うん。ぜったいわすれない」



 どうしてみゆちゃんがそんなこと言ったのか、あたしには全然見当もつかなかった。みゆちゃんはときどき、すごく大人みたいな不思議なことを言う。



 またね、と言って部屋を出ようとするときの、奈々穂さんのさみしそうな顔は……悲しかった。



「ね、みゆちゃんはどう思う? 一緒になると思う?」



「なる。絶対」



 お、言い切った。



「あんなに美人で胸がおっきい人だもん。憲邇さまだって、きっと抱きたいって思ってる」



 あれ、なんだか悲しそう。



「あたしたちだって大人になったらああなるよ。ね?」



 そしたら結婚できるんだから。指輪もらったでしょ?



「……うん」



 もう、暗いんだから。



 なるべく明るいことを言いながら、憲邇さんには会えずに家に帰った。奈々穂さん。治っても、友達でいてくれるかな。



 美人にばかりつらいことが起こるのは、きっと世の中のせいだ。



 あたしだって、美人だもん。



 



 



 



 



 生きていく上でなんの悩みも苦しみもないという人はいない。けれど、彼女らに降りかかった不幸は、例え五十川(いそがわ)がどう言おうとも贅沢な悩みなどではないと思う。



 真崎(しんざき)奈々穂は多くのショックから幼児退行へと解離してしまった。水村(みずむら)詩音(ふみね)は長く変わらなかった環境から自傷行為をしてしまった。そして尾方(おがた)親子は私のせいで傷ついてしまった。まゆちゃんは私と関係を持ったせいで父親にレイプまがいのことをされ、心に一生癒えないかもしれない傷を負った。尾方さんは私と関係を持ったことと夫の行為に衝撃を受け、精神的に疲弊し、苦しんでいる。



 尾方さんは誰にも相談できずに、唯一事情をすべて知る当事者である私に肩を委ねてきた。後になって知ったことだが、彼女は夫の家に嫁いで来、知らぬ地での生活を始め地元の親戚知人とは疎遠になっていた。ここでも、心を許していると思える友人は夏野(なつの)と呼ばれるゲイの男性しかおらず、その人にもこれは話していない。彼女は働いていたが、それも夫が伏せたからであり、その苦労は誰にも理解されるはずがないと自分で壁を作ったために誰とも親交を深めようとしなかった。或いはただ単に忙しかっただけなのか、疲れていただけなのか。彼女はあれほど魅力的なのに、そこを見抜いて共にあろうとした男性がいないのは不思議だった。



 私は彼女たちを癒し、背中を押す責任がある。なのにどうしたらいいのか、私には見当もつかなかった。



 もし(いずみ)の言うように、誰かに恋をして少しでも苦しさが軽減されるのなら。誰かと恋に落ちて欲しかった。できれば、私以外と。



 私はできると思ったことを一つずつやっていくしかなかった。



「え、先生に? 話してるわけないでしょ。話せないわよ」



「話してはダメかな?」



「どうして?」



「もちろん事実は伏せるよ。ただ、ある程度のことを知ってもらって協力してもらう必要があると思うんだ。男の子のクラスメイトにも軽く話をして、彼女にはなるべく辛く当たってもらわないように頼んでみる」



「先生が言ったからって聞いてくれるかしら」



「先生からじゃなくて、私から全員に話すよ。一人一人に。でないと伝わらないと思う」



「……私が、話すわ。あなたは忙しいでしょ」



「いや、やらせて欲しい。これは私の責任なんだ」



「……」



 彼女は一歩、こちらに歩いてきた。「……ダメ? 私も、ちょっとでいいから、あなたの荷を背負いたい」



「ありがとう。頼りたくなったら、私のほうから言うよ」



「……私は、私だけは、あなたのしたことを赦してあげられるわ。だから……」



「あり──」



 いや、それも言うべきではない。



「赦してはいけないよ。赦されてもいけないんだ」



「なによ、強情っぱり……」



 また一歩、こちらに来る。



「私にも……触ってよ」



 見上げた瞳に光る色を私は認めたくなく、



「おやすみ」



 と言って頭に手を置くだけにした。



 女性にしては背の高い彼女は、いつからかとても小さく見えた。



 私のせいだ。



 尾方さんの気持ちは本当に嬉しい。飛び上がって舞い上がってしまいそうだ。だが彼女に私の欲望でできた咎など、背負わせたくなかった。少なくとも、迷走している今この時期には。もう少し落ち着いた後になら、きっと頼ってしまうと思う。



 彼女のように。



 



 



 翌朝。梅雨の雨のしとしととした音が目覚ましとなり、いつもより早くに起きてしまう。隣に眠る人を起こしたくなかったので、そのまま少しだけ眠ることにした。



 彼女の髪を撫でながら考える。まゆちゃんは、学校の男子に勇気を出して話しかけたようだった。昨日それに気付いて指摘すると、噛み締めるようにお礼を言ってきた。それから頑張ると、頑張って頑張って前のようになると言ってくれた。無理をしてる彼女は見ていて辛かったから、頑張らなくていいと言っておいた。しかし、それが彼女を消沈させてしまう。頑張ったから褒めて欲しい。子供なら当然の思考回路だ。頑張らなくていいとは、言ってはいけなかったのかもしれない。それに気付き少しずつやってくれればいいよと言ってはおいたが、どうだろうか。また無理をするかもしれない。曖昧な言葉は小学生にはわかり辛く、いっそどちらか極端な言い方をしなければ、なにをすればいいのかわからないのかもしれない。



 ……もう一度言っておこう。それに加えて友人たちにもだ。後先生か。そんなことを考えながら眠りに落ちた。



 まゆちゃんは少しずつでいいという、その少しずつがわからないのだろう。困惑していた。私は思い切って、今は男の子と話さなくていいよと言っておいた。彼女は強く首を振った。頑張りたいと言って聞かなかった。母親が言っても聞こうとしなかった。……誰か別の、他人が言うしかないのだろうか。



 一度思考を切り替え、仕事に入ることにした。明日は平日の休みだ。その日に学校へ話をしに行こう。



 今日は不登校の患者さんがくる日だった。母親はこんなに通っているのに一向によくならないのはなぜですかと訊ねてきた。私は自分の力が及んでいないからですと答え、できたらもう少し二人きりで話をさせて欲しいのですがと告げると、私がいると邪魔だって言うんですかと、声を荒げた。そういう意味ではなく、ただ彼が母親の前では言いにくいこともあるだろうと思っただけなのだが……いや、言い訳だな。謝るしかなかった。



 彼は漫画の、有名な少年誌の水を向けると顔を上げて、いや、あれはつまらないと言ってきた。……あまりにも、あっけなく。私はそこから次いで他の漫画の話をしていった。彼は即座にレスポンスをし、あれはおもしろい、あれはつまらないと言い、それからのってきたのか自分から次々と話をしてくれた。進学校だったから周りに漫画が好きなやつがいない。友達がいないから毎日が楽しくない。それなら、部屋にこもって一人で漫画読んでたほうがいい。そうすれば、母さんだって学校選びを間違ったことに気付いてくれる……



 母親は衝撃と息子に対する申し訳なさに涙ぐんでしまっていた。かと思うと、甘えないで、情けない、社会に出たらもっと大変なのよと、一段と大きな声を出した。所謂、教育ママに思えた。そこから親子は白熱したケンカをした。だったら学校ぐらい自分で決めさせて欲しい、いいえ私が選んだほうがしっかりしています、漫画だって、いい加減に卒業なさい……



 イライラしたので私は思い切って母親に言った。



「あなたは息子さんのことを想っているようですが、それはただ一方通行の愛情ですよ」



「……先生には関係ないでしょう!」



「ええ、そうです。ですから、二人でケンカをするのならもう帰ってください。私もあなた方だけに付き合っていられるほど暇ではありませんので」



「……!」



 憤慨した母親は息子の手を無理矢理引っぱって診察室を出て行った。そうとも。もう後はあなた方の問題だ。私の言うべきこと、きっかけは作った。あの調子なら私はいらない。必要なら、またどこかを頼るだろう。私以外を。



 水村さんの病室を訪ねる。私が扉を横にスライドさせると、そこでは彼女がどこに隠してあったのか小さな果物ナイフで左腕に傷を付けていた。私に気付くと時間が止まったかのように身動きをまったくしなくなった。ナイフを隠そうとも、傷口を隠そうともしない。いや、できないんだ。ただ恐怖に顔を凍らせて、これから起こる私の怒りに、怯えている。



 怒れるはずがない。



 私はそっと扉を戻し、彼女の元に近付いて行った。一歩進むたびに恐怖の色を濃くし、青ざめていく。



 自傷(これ)に対する正解など、私はないと思う。個別であり特別なのだ。私は両手で、そっと彼女の左手を包み込んだ。



「どうか、自分を責めずに他人を、私を責めてくれないか」



「……ぇ」



 こんなにも小さな手が、こんなにも大きな傷を……自分で、作ってしまった。



 無理矢理縛ってしまえば、早いだろう。やるのを止めなければ殴り飛ばすと脅せば、或いは解決かもしれない。しかし、問題は行為そのものではないのだ。そして行為を止めてしまうと、更に追い詰められるのは彼女自身であり、自傷をしてなんらかの安心を得られなくなればそれこそ、更なる安心できるなにか、もっと過激な衝動を満たそうとするだろう。



 即ち、短絡かつ直接的な自殺。他の医師が危惧する事態。それだけは起こしてはならない。



 だが……私には彼女がどうして自傷をしてしまうのか、いまだにわからないのだ。仮説はある。だが、はっきりとは。



 止めたいのに、止められない。その悔しさに力がこもってしまう。



「ぁ、あなたは悪くない、です。ぜ、全然っ、そんな、わたしのほうが」



「違う。医者に相談しに来て、まだ治せていない私が悪いんだ。そして君が悪いなんてことは一ミリたりともない。悪いのは病であり、君自身が自傷行為(それ)を引き起こしたわけでは決して、ないのだから」



「……」



 小さな金属音がして、ナイフが床に落ちた。彼女は唇を少しだけ噛み、目に涙をため流すのを必死に我慢していた。ああくそっ、こんなことを言われてしまう自分はダメなんだと、思わないでくれっ。



 自分が引き起こしたなんて、絶対に思っちゃいけない!



「……ぁ……ぅ……」



「待つよ。君が治るまで、君が話せるようになるまで。絶対に待つ。言えないなら言わなくていい。君なら、いつか絶対言えるようになるんだから」



「……ぅぅぅ……」



 指先一つ動かすことなく、彼女は泣いた。時折しゃくりあげるだけで、どこも動かそうとしなかった。私はただ、彼女の利き腕に新しく加わった生きている証(きずあと)を、悔しさと無力感とともに眺めているだけだった。真っ赤だった。



 痛くて痛くてたまらないようにしか、見えなかった。



 



 



 翌日。早いほうがいいだろうと学校を訪ね、一時間目は自習にしてもらい、担任の先生と話をした。



 彼女は生徒のためを想ういい先生であり、なにかできることはないかと駆け寄ってくれた。私はホームルームで言わないで欲しいことと、できるだけフォローをして欲しいと頼んでおいた。……彼女のような先生がいることは追い風だ。嬉しい。



「確かに、以前はキスまでしてた臼田(うすだ)くんも避けるようになりました。まさか、そんなことが……」



「よろしく、お願いします」



 私が頭を下げると、彼女の手がぎゅっと握り締められたのが見えた。



 小学校の一年生というのは、基本的に騒々しいが無邪気なものだ。私が話があると言うと素直に聞いてくれる。殆どの生徒は神妙に頷き、任せて欲しいと胸を叩いてくれた。元々元気で笑顔の絶えなかった彼女の様子が変だとはみんな気付いていたらしい。だからショックではあるけど、彼女を嫌いになんてなってないよと、言ってくれた。嬉しかった。ありがとうと、しっかり手を握って答えた。



 その後に。背筋が凍ることを聞く。まゆちゃんはもう、以前のように男子とも会話をすると。笑いながら、していると。元に戻ってる、おかしいとこなんてない……



 怖かった。事実を確かめるため、まゆちゃんを探しながら他の男子に話を聞いていく。



「……なあ、あいつどうして元気ないか、教えてくれよ」



 (たける)君は詳しい事情を尋ねてきた。私が彼女について話がある、と言うと向こうからこんな言葉をかけてくれた。彼が抱いているまゆちゃんへの恋心。それを思えば、少しだけでも教えておく必要がある。



「なあ、あんたが新垣(あらがき)の母ちゃんと結婚しないからじゃないのか」



「……」



 なぜ、この子がそれを知っているのだろう。



「俺この前聞いたんだ。水族館行って、近くのレストランみたいなとこで飯食った。そしたら、そこに新垣とその母ちゃんと、あんたがいた。聞こえたんだ。結婚してって。そしたらあんた、首振ってただろ」



「……うん。でも、それとは関係ないんだよ」



 事情を話した。彼は激情に顔を歪ませ、その後悲しみに戻っていった。



「……ひでぇな、それ……いくらあいつがかわいいからって、ひでぇよ」



「武君、このことは誰にも言わないでくれるかな」



「ああ、わかったよ。なあ、だったらやっぱり、結婚してやれよ。あいつ父ちゃんほしいって」



「うん。そうかもしれない。でもよく考えなくちゃ。家族になるっていうのは大変なことなんだ」



「そっか。そうだよな。わりぃ」



「ねぇ、君にも以前のように話しかけてくるかな?」



「ああ、一応な。でも変だ。今の新垣、ああ尾方なんだっけ、尾方、変な気がする」



 見抜いていた。やはり、私などよりこの子と共にあったほうがいいだろうに。



「そっか。だったら言ってあげて欲しいな、無理すんなって」



「そうだな。言っときゃよかったな。わかったよ」



「お願いだよ」



 また強く、握っておいた。



 まゆちゃんが見当たらない。みゆも知らないと言っていた。どこだろう。しらみつぶしに学校を回ると……



 人通りの少ない旧校舎、特別活動室の前に彼女はいた。蹲り、規則的に呼吸を繰り返していた。その動作が、あまりにも大きい。私は慌てて、傍に駆け寄った。



「はーっぅ、はーっぅ、はーっぅ、はーっぅ」



 必死の形相で過呼吸気味に息を吸っては吐いていた。思わず背中を撫でながら少しでも早く落ち着いて欲しいと願いを込める。



「……っ、け、んじ、さん?」



「ああ、私だよ。どうしたの? 大丈夫?」



「っ、はーっ、は、はーっぅ、うぅ、はー、はーっ、はーっ」



 過喚起症候群だ。恐らく必要以上に男子と触れ合いすぎて、これ以上は過剰なストレスだと体が危険信号を発したんだ。いや、パニック障害の始まりか? くそっ、どうして私はあのとき強引に押し通したっ。



「落ち着いて、大丈夫、すぐに治まるよ」



「はーっ、だって、がんばらなきゃ、けんじさんに、はーっ、ほめてもらわなきゃ」



 頑張らなければ褒めてもらえない。そう考えてしまっている、のか? くそっ、どうして。



「まゆちゃん、無理しないでって」



「でも、もう怖い……っ。はーっぅ、みんな、笑ってる。あたし襲いたいんだ。っ、あーっ、はっ、はっ」



 やはり後者か? 話すたびにそれがストレスになり、襲われるのではないかという想像をしてしまう。



「違う、みんな君を心配してるんだ。大丈夫、誰も君を襲ったりしない。そうじゃないか、誰も襲おうとしなかっただろう?」



「はーっぅ、はーっぅ……ねぇ、キスして。キスしてよう……」



 長い休み時間。誰も通らないことを祈りながら、まゆちゃんの体を私の体で隠して軽く口付けをした。すぐに離そうとしたが彼女は追ってきた。安心したいのならやりたいようにさせたほうがいいのかもしれない。そう思って、彼女のままに任せた。激しい呼吸が、少しずつ落ち着いていき……やがて通常通りに戻った。その後も彼女は私の首に腕を巻きつけてきた。



「あたし、病気かな?」



「そうかもしれない。今日時間を作るよ。後で診察しよう」



「うん……ねぇ、憲邇さん」



 彼女はじっと、私を見つめてきた。



「……お、お口でする、えっちがあるんでしょ? みゆちゃんから聞いた。そ、それなら、いいでしょ? ほ、ほんとのえっちじゃないもん。しようよ。してよ……あたしの体、気持ちいいって思うなら、やってよ……」



「……」



「今すぐ、して。ここだれもこないんだ。大丈夫だよ。ねぇ、して……」



 できる訳がない。そんなことをして母親が悲しまない訳はなく、同じことの繰り返しとなるだろう。だが、そこまでしなければ安堵できないほど追い詰められているのなら、やらなければまた同じような症状が襲う。



 どちらも、選べない。



「……できないよ。もうしては、いけないんだ」



「ここ、怖い? じゃ、じゃあおうちでして? おうちなら、鍵かけたら大丈夫でしょ?」



 首を振る。衝撃に彼女はまた、「っ、はー、はーぅ」過呼吸に陥ろうとしていた。私は思わず口から心境をぶつけてしまった。



「したいよ。したくてしたくてたまらない。口でするのじゃなくて、前したやつがしたい。触りたくてたまらないんだ」



「はーっぅ、はーっぅ、ほ、ほんと?」



 彼女の耳もとで。しっかりと抱きしめて。



「本当だよ。お風呂入るときはドキドキしてる。脱がしたくってたまらない。まゆちゃんがくるくる回転してるのをずっと見ていたい」



「はーっ、はーっ……」



「でも、今は我慢しなきゃいけないんだ。もう少し君と、君のお母さんが落ち着くまでは。そうしたら私は君を襲うかもしれない。高校生なんて待てずに、君を、まゆちゃんを犯すかもしれない。まゆちゃんがかわいくて、好きだから」



「……えっち」



「そうだよ。嫌いになった?」



 落ち着いてから、彼女はふるふると首を振った。



「あ、あたしのほうがえっちだもん。したくてしたくてたまんない。何回も思い出してる。裸で入ったとき、もどかしかった」



「私もだよ。おんなじ」



「うん……」



 今度は胸に顔をうずめてきた。「ご、ごめんなさい、えっちな子は、きらいだよね」



「それくらいえっちじゃないよ。えっちな子は我慢できないんだ。ちゃんと我慢できてる、まゆちゃんは普通の子だよ。偉いんだ」



「ありがと……」



 休み時間が終わる鐘の音が鳴るまで、彼女はぴくりとも動こうとしなかった。



「じゃあ、また帰ってからね」



「うん」



「いい? 無理して話そうとしないこと。ちょっとでも辛いとか苦しいと思ったら、謝って離れなさい」



「うん」



「よろしい。私と一緒に、またゆっくり練習していこう。……ちょっとずつでもできるようになれば、充分すごいんだよ。ちゃんと褒めてあげる。安心して」



「……うん」



「大好きだよ、まゆちゃん」



「あたしも、大好き」



 今度は頬にキスをして、別れた。



 言わせない。あの苦しみが、贅沢などと。



 



 



「贅沢ですな、本当に」



 だから同じ料亭を場所に選ぶのはやめてもらいたい。住んでいる町が同じでもこういう偶然は被りたくないものだ。



 今日は町長のみが話があるといってきた。仕事帰りになるのでもういい時間なのだが、この人は忙しくないのだろうか。



「ここを選んだのはあなたのほうですよ。贅沢だと思うのなら別の場所を選んでください」



「そういう意味ではありません。この前、巫女がうちを訪ねてきましてな」



「ええ」



「もしあなたにひどいことをしようとするのなら、今まで自分にしてきたことを警察に言うと、言ったのです」



 みゆが、か。以前この男が来たときになにか脅されることを言われたのか、それとも別のなにかがあったのか。いずれにせよ、よいことではあるまい。呼んでおいてよかった。



「そうされても、仕方のないことだと思います」



「しかし私がよく言い聞かせると、最後には彼女も納得してくれましたよ」



「ああ、私との関係が漏れたんですね」



 確かに、あのとき来られていたとしたらみゆでも弾みで言ってしまう可能性が高い。



「そんなことを言ったら、本当に困るのは私だと」



「ええ。だから贅沢だと言ったのです。元々あれはみなで分け合うものでして」



 ははは、笑える。



「人をあれと呼ぶのはやめたほうがいいと思いますよ」



 死にたいのか。



「……ですから、これからは運命共同体」



「あなたは一人だけだと思いますか?」



 言わせない。この男にも家族がいて、孫がいる。この男を始末すれば済む話ではない。口封じなどは最終手段であるべきだ。



「なにがですか、私どもとしてはお互いで有効活用できればと思っておるだけです。なにも先生と共に牢獄に落ちる気はありません」



 ああもう、面倒くさい。



「パティ、入っておいで」



 質のいい桧の障子を開けて、パティ、パトリシアが入ってきた。まだ十二歳、幼い体に、恐ろしい力が冗談のように眠っている。外見上はまったく普通の少女であり、瞳の色こそ外国生まれのようにライトブルーだが、髪の色と、肌の色は日本人そのものだ。だけど違う。その内は他の誰と比べてもまったく、違うのだ。



「……? その子がどうかしましたか?」



「みゆのような、超能力、と言いますか、不思議な力を持つ人間が一人、いるとして。それは本当に一人だけでしょうか」



「なにが仰りたいのですかな」



「パティ、わかりやすいからあの人の体を浮かせてよ」



 こくりと頷いた彼女が一瞥をくれただけで、年老いた一人の男性の体が一メートルほど上に浮かび上がる。彼はなんの前触れもなく生じた自分の異変に戸惑い、手足をばたばたさせたがまったく意味はなかった。



「みゆもこういう力だとわかりやすかったのですが」



「なっ……ま、まさか……」



 下ろしていいよ、と言うとふわりと着地する。彼は畳の床がそこにあることを何度も確かめていた。



「えーっと、それでですね。私はみゆをあなた方の元に戻す気は欠片もありません。……みゆが、自分の意思で行かない限りは決して」



 なにかを隠すということが少しだけ得意になってしまったみゆは、恐らくあれから何度かこの男たちの元へ行っているとは思うが、以前のようなことはないから放置しておいた。私の思い過ごしである可能性もある。



「パティたちは、あなたたちの前では肉体的に、殴ったり蹴ったりですね、しかしていないと思いますが、彼女たちがあれだけ強いのは不思議な力があるだけです。実際に彼女たちが特殊な訓練を受けてきたわけではありません」



「……それで、自分たちはいつでも私どもを殺せるから、無駄な足掻きはやめろと」



「殺すつもりはありません。戦いになってやむを得ず殺してしまう場合を除いて、こちらが殺そうとすることは絶対にありません」



 そんなことはさせられない。



 これ以上、彼女たちの手を血で濡らす必要などないのだから。



「信じてもらえないでしょうが、殺そうと思えば機会はいくらでもありました。殺したくないのです」



「だが、放っておけば私たちはいずれ報復を考える。今日のように、ここにはもう相応の数の人間がいます」



「そう、ですか。やめてはくれませんか」



「先生さえいなくなればまた私たちは元の生活を送れます。そのためなら多少の無理はしましょう」



「……そんなに長生きがしたいですか」



 町長は驚いた顔をした。



「私もかなりの回数みゆの力を受けました。大体、わかります。自分の身体にどのような影響が及んでいるのか。この前など、中学生だと嘘をついてもとおりました。ありえません」



「……」



「若返りの力があるから、老化防止の効力があるから使われたい。目に見えて若返りましたよね? ここ最近、急に」



「長生きしたくてなにが悪いっ!」



 障子がすべて開けられ、体格のいい男たちが何人も現れた。



「お前のような若人にはわからんだろうな! 日々干からびていく自分の体が! いつ病に蝕まれるとも知れぬ弱い体が、憎らしくてたまらない!」



「老いも楽しみですよ」



「そんなことを言ってられるのも今だけだ。お前もいずれわかる。最後だ、私たちに戻せとは言わん、共に長生きをしようじゃないか」



 ……老いも、楽しみなのだ。老いていくことの素晴らしさが、どうしてこの人にはわからないんだろう。



 しわくちゃのおばあさんになりたいと、何度彼女たちは言ったことか。



「パティ、手を出された相手だけだよ。逃げる人は追わないで」



「はい」



「……わかった。いっそ死んだほうが楽だと、思うがいい」



 どこから取り出したのか先陣を切った人の手にあった銃が暴発した。焼け爛れた手を押さえ、驚愕に歪みながらも後続の男たちも同じことをしようと、或いは別の武器でもって襲い掛かってこようとする。



 パティの視界には、全員が入っていた。



 彼らの持っていたものはいずれも暴発し、棒状のものも折れたり、爆ぜたりして周囲に欠片を飛散させていった。それらは決して、こちらにはこない。武器に敵意を込めたものは、すべて破壊されていった。



 どよめきが走り、誰もが撃つことをためらう。「人を殺しに来るということは、殺されてもいいということです。ですが、私はそれでも殺す必要はないと思います」



「なぜ、だ? どうしてこんなことができる!」



「超能力ですよ。それですべて説明がつきます」



「どうして殺さない? これだけの力がありながら、どうしてなにも支配しない?」



「……」



 支配は、している。彼女たち全員を支配し続けている。それだけで満足だ。



「やっていますよ、あなたの見えないところをたくさん。みゆにもう来ないでいいよと言ってくれませんか」



「なにもかも知っているなら、どうして私たちを裁かない? お前ならできるだろうに」



「なにもかも知ることなど、できません。本当にみゆがそちらに言っているのかどうかは知りませんでした。行っていたのなら、やめさせて欲しいのです」



「それが条件か」



「いえ、あなたが言ってくれないのなら彼女を説得するだけです。お願いですから、このようなことはもうやめてください。私はすべて未然に防ぎます。あなた方がなにをやろうとしても、すべて防いでみせます。監視をしているのはそちらだけではありません。お願いします」



「……私は、死にたくない」



「人は死にます」



 どれだけ突出した才能を持っていようとも、万人に共通すること。誰もが死ぬ。どれほど強力な超能力を持っていたとしても、不老不死だけは絶対に持てないのが人間だ。



「遅らせれば遅らせるほど、恐怖はいや増すばかりですよ」



 延命が辛い患者さんもいる。医者の判断ではどちらがよい、と軽々しく言えるものではないが、家族と第三者が見て適当だと思えるのなら。安楽死は選択肢の一つなのかもしれない。五十川は絶対に認めようとしないが。



「……なら、せめて殺してくれ」



「甘えないでください」



 私はパティの手を取って、席を立った。



「あなたには不安を共有できる友がいます。実際彼らに胸の内を告げたこともあったでしょう。そちらを頼ってください。失礼します」



「……」



 うな垂れた男は、年相応の外見に見えた。



 彼女は所謂瞬間移動もできないことはない。けれど今日は普通に助手席に乗せた。繋いだ手が離れると、彼女はとても寂しそうな顔をした。



「ご苦労様。ごめんね、急に呼び出して」



「いえ、とんでもありません。いつでもお呼びください」



 そうして、左手を右手で撫でる。……私はそっと、頭を撫でた。パティは一瞬驚いたように体をびくつかせたが、すぐにじっとそれを受けた。ほのかに頬を染めて。



「……もったいないです、私などのために……マスターは、私たちにはただ命令をくださればよろしいのに」



「嫌だ。ずっとするよ。私がやることが嫌なの?」



「いえっ! とんでもありません……で、でも、こんなにしてくれて、私はなにをすればいいのか、わからなくて……」



「パティは、なにがしたい?」



「……」



 瞳の色が真っ黒になった。なんでもしますと、何人でも手にかけますと、言っている。……いや、覚悟は嬉しいが。



「わかった。次のテストで八十点以上とって欲しいな」



「……え」



「そうしたら、なんでも一つパティの願いを叶えてあげる。いい?」



「わ、私の平均点」



「いいから」



 わしわしと撫でるのを強くした。「考えておいて。私にできることなら、なんでも叶えてあげる」



「……」



 なにも言えず黙り込んでしまった。がすぐに熟れたりんご以上に真っ赤になって俯く。ううん、どんなお願いを考えているのだろう。



 私こそ、この子たちにはしてあげるべきことがたくさんある。普通の暮らしを送らせること。それだけのことがまだ、できないのだ。



 彼女たちには身寄りがない。パティの他にもまだ何人も不思議な力を持った子がいて、全員が家族を失っていた。それも当然で、捨てられたり、誤って殺してしまったりを経験する。普通に別れてしまうこともあるが、概ねその原因は持って生まれた能力にあった。大抵は発現が本当に幼い頃であり、なにも知らぬまま両親に捨てられることもままあった。パティの発現は四歳の頃であり、偶然にも赤ん坊の頃から面倒を見ていた私は、その発露を見て驚いてしまったものだ。



 パティは、私と親交の深い児童福祉施設の前に捨てられていた。名前もわからず、誰が親かもいまだわからない。方々ていを尽くして施設の方は探したが、見つからなかった。パティ以外の子供たちも似たようなものだ。お願いですから引き取ってくださいと、言ってくる親もいた。虐待をするようになる人も多かった。反撃できる力はあるのに、子供たちはそれをせず、結果……保護する形になる。



 施設には多くの超能力を持った子がいる。最初の一人を偶然知り、それから探したのだ。保護するべきだと思った。真っ当な家族を持ち生きていけるのならいい。けれどそうでないのなら、誰かが手を差し伸べねばならない。職員たちも同じ気持ちだった。



 力がないほうが虐げる。それは悲しいことだった。



 私たちが家族だよと言ってはいる。だが、それで本当に家族になれるかどうかは私たち次第だ。この子供そのものでしかない少女を、本物にできるかどうか。これからにかかっている。普通に生活をさせなければならない。だが、力を持つということは平穏とは程遠いということだ。同じ人種が世界にはいる。同じ人種が、攻撃を仕掛けてくることがある。守るためには、子供しかいないあの施設は大人が必要だった。……だが、その結果。



 こちらを見上げる潤んだ瞳を、どうか私以外にも向けて欲しいのに。



「……」



「パティ、言いたいことを我慢するのは辛いよ」



「……ぁ」



 けれど、彼女は口をぎゅっと結んで、



「いえ、なんでもありません」



 といつもの表情をとるのだった。



 私は彼女たちを支配している。みゆたちと同じように命令をし、従わせている。彼女たちが望んだのではない、私がやらせたのだ。



 私はこういう人間だ。それも隠している。最低卑劣極まりない。だがそれでもやらねばならない。ただ闇雲に力に振り回されてはいけない。誰かが命令をして、誤った方向に向けるのを止めなければ。一番年上は十六歳が二人、その下がパティで、残りは二桁に届くか届かないかばかりの子だ。



 無邪気に人の命を奪うばかりでは、彼女たちの将来は暗いものでしかないのだから。



 



 



 パティを送った後帰宅すると、見知らぬ車が一台余計に止まっていた。誰だろう……ん? これ、どこかで見たような……



「お帰りなさいませ、ご主人様」



「ああ、ただいま──」



 良子の後ろに、竹花(たけはな)さんがいた。



「……久しぶり」



「ああ、うん。久しぶりだね。急にどうしたの?」



「……泉にね、呼ばれたの。久しぶりにこっち来なさいよって。だから、来ただけ」



「ふぅん……」



「泊めなさいよ? い、泉のやつ、今あんたと付き合ってるって言うから、邪魔してやろうと思ったのにいないしっ。そ、それどころかっ、親子と、同棲してるし……」



 後ろから走ってくる尾方親子が見えた。



「ちょっとあなたっ、帰り遅すぎるわよ、まゆがどれだけ待ったと思ってるのっ」



「ごめん、用事があったんだ」



 彼女は竹花さんを一瞥し、悪戯っぽく笑った。



「なあに、浮気したならしたって堂々と言いなさいよ。懲らしめてあげるから」



「や、やっぱりあんた妻だっていうのっ?」



「違うよ。絵里(えり)さん、悪戯はもうやめてくれないかな」



「まー冷たいわねーまゆー?」



「お母さん、いい加減にしなよ。おかえりなさい、憲邇さん」



「ただいま」



 そっと頭を撫でた。「遅くなってごめんね、待っててくれてありがとう」



「ううん。イライラしてたのお母さんだよ。そんで、はらはらしてたのこの人なんだ」



 じっと竹花さんを見た。彼女はふざけないでと顔に書き、「あんたこそ泉と付き合ってるならどうして同棲なんかっ。ただでさえこんな若い子メイドとかにしてんのにっ」と以前のように怒り出す。



「少し事情があってね。もう遅いから、明日話すよ。時間はある?」



「ええ、明日なら……ふん、相変わらずおモテになることですね」



「そんなことないよ。君と付き合えたのは奇跡だ」



「っ……ば、バッカじゃないの!」



 やっぱり怒らせてしまった。床をどしどし踏み鳴らして部屋に行ってしまう。



「もう、相変わらずご主人様はご主人様ですね」



「え? だって、本当のことだよ。どうして彼女のような人が私と付き合おうなんて言ったのか、いまだにわからないんだ」



 ふふふと尾方さんが笑う。



「女はギャップに弱いのよねー。ね、まゆ?」



「ん? うん」



 ギャップ? 私にギャップなんてあるだろうか。外見どおり好色だし、外見どおり嫌なやつだ。医者らしくない医者だし、どこにもそんなところはないと思う。



 寝る直前になっても、どこがギャップなのかわからなかった。



 



 



「……それで、どこがどう家族じゃないっていうの」



 翌朝、日課になりつつあるまゆちゃんと尾方さんで三人手を繋いで食堂へ行くと、待ち構えていた竹花さんは低い声で告げた。



「まゆは憲邇さんのこと大好きだもんねー?」



「お母さんだって好きでしょ?」



「うふふ。もちろん」



「……! 泉がかわいそうよ、ちゃんと説明して!」



「うん、わかった」



 食事がてら説明をする。今日が休みでよかった。週末なのでどこも賑わっているだろうが、同じように彼女たちも大抵休みだ。確か、泉も広子もそうだったと思う。



「……そ、そういうことは早く言いなさいよ!」



「ごめんね」



「……大変、でしたね。あたし、全然想像できないけど……こ、この人はね、見かけどおり優しいから、ずっと甘えるといいわ」



「うん、そうする。はい、憲邇さん、あーん」



「……うん、おいしい」



「よかったあ」



「……」



 程なく全員が示し合わせたかのように集合した。竹花さんにこのことまで話す訳にはいかないが、かといって追い返す訳にもいかない。



「きゃー(ともえ)ちゃん久しぶりー」



 泉はオーバーアクション気味に両手をあげてから彼女に抱きついた。



「久しぶり。相変わらずね、泉は」



 静香はなぜか羨望の眼差しをしていた。千歳もみゆも広子も、感嘆のため息を漏らしていた。ああ、それはそうか。押しも押されぬトップモデルの彼女だ。その美貌は目標でもあり頂きなのだろう。



 竹花さんは再会の喜びもそこそこに、真面目な顔をして泉の両肩をつかんだ。



「泉、悪いこと言わないわ。子供の幸せを壊しちゃいけないわよ」



「なーに言ってんの、壊しゃしないわよ。あの子はね、せんせーのお嫁さんになりたくてしょうがないの。今は借りてるだけ。大人になったら返すからだいじょーぶ」



「そりゃ、そうだけどさ……あんたは事情知ってるの」



「うん。せんせーと一緒なら本当に大丈夫よ。信頼してる。本当に……家族になりたいなら、身を引けるだけの女は持ってます」



「……そうね」



 納得したのか、竹花さんはそっと手を離した。「で、この子たちはなに?」



 めいめいにソファーに座り、良子がお茶を運んでくる。静香はどうやらサイン色紙を持ってきているようだったが、中々取り出せないようだった。



「あたしの妹たち」



「似てないことこの上ないわね。ふぅん、そうだったんだ」



「おいっ、信じんなよ」



「冗談よ」



 からからと面白そうに笑う。泉と竹花さんは以前から仲がよく、よく相談にも乗ってもらっていたそうだ。お互いに。



 泉は一応、みゆたちはただの友人だと説明した。こっそりなにかを耳打ちしていたのでまたいらないこと、或いは誤情報を植えつけたのだろう。案の定、竹花さんはまた強く私を睨んできた。そっと静香がサインを求めたので、嬉しいのか顔を若干緩めたが。



「ねーねー、お姉さん昔憲邇さんとつきあってたんでしょ?」



「……ええ」



「昔の憲邇さんどんなだった?」



「なーに、泉はこれであたしを呼んだわけ?」



「そーよ? 趣味悪いでしょー?」



「本人を前に暴露話ってあんまりやりたくないんだけど……いいわ。話したいから話してやろう」



 昔といっても精々二年前ぐらいなのでそんなに私も変わってはいないと思う。もちろん、今のような事態には陥っていなかったが。



「こいつはあたしがお酒飲んで吐いたところに出くわした最悪のやつだったの。それだけでも記憶を失ってほしいくらいなのに、あとからあとから余計なことをいちいち……あー思い出したら腹立ってきた」



「でも、言われて嬉しかったんでしょ?」



「んなわけないでしょ、ビンタしてやったわよ。まあ、ちょっとね、仕事で落ち込んでたから、精神科医だって言うし、カウンセラーみたいなこともできるだろうって、ちょっと診てもらおうと思っただけ。そこにこいつがつけこんだの。それだけよ、馴れ初めは」



 あれは痛かったなぁ。



「憲邇さんのどこ好きになったの?」



「別にないの。さっきも言ったけど、あたしはただ診察してもらいたかっただけなのに、そのときに根掘り葉掘りプライベート聞いてきては連絡先まで聞いてくるから、治療に必要かなって教えたが最後すっごいしつこいアピールだったんだから。ああ、彼女いないんだなって、付き合ってあげないとかわいそうだなって思ったから付き合っただけよ」



「好きじゃないのにつきあったの?」



「大人はそういうのもあるの」



「ふーん。わっかんねーなー」



「私は好きだったよ。だからアピールしたんだ」



「バッカじゃない! いちいちそんなこと言わなくていいの! あんたは黙ってなさい」



「はーい」



 変わってないな、本当に。



「じゃあ、憲邇さんのどこがいやだった?」



「とにかく女ったらしなところね。なにしてもムカついたわ。治療だなんだってたっくさん女が群がってきたし、全員にへらへらしやがってっ。彼女ができたら毅然としろっつーの」



 段々口調が戻ってきた。



「大体、サプライズをやらないのがいけないのよ。なにか、こう、引くぐらいの驚きをくれればよかったの。いっそどこか夜景のいいとこ独り占めとか。とにかく、引き止めるなにかが足りないのよ。勝手にあたしの行きたかった箱根に宿泊予約を取るぐらいじゃダメ。いくらあたしが行きたかった宿でもダメなのよ。どうせならイタリアがよかったわ。料理もまずくもうまくもないのがダメね。プレゼントもひっきりなしにやりなさいよ。あたしの好みを覚えてるのはいいわ。でも勝手に料金払うのやめて。あたしだってあんたの彼女なのに。忙しいんだから無理して時間作らなくていいのよ。一緒の、少しの時間を大切にしたかった。なのにあんたは平気で何時間も待つし。褒めすぎなのよ、なにかにつけ。あたしが美人なのは仕事なの。当たり前なんだから、言われ慣れてるの。今さら彼氏にまで言われたって飽食だったんだから。そうよ、仕事なんだから頑張るのは当たり前で、別に褒めてもらいたくて頑張ってるわけじゃないのに、いちいち褒めなくていいの。お疲れ様とか、大変だったねなんて、聞きたくなかった。ただ──」



 そこでようやく思い留まったのか、息を整えた。ううん、ここまで不満が溜まってたのなら、別れを切り出されたのは当たり前だったな。どうして彼女たちは私を嫌がらないのだろう。



 今までずっと黙っていた泉が、急に大声で笑い出した。



「あはははは! やっぱり巴ちゃんっておもしろいわー。そうねー、やっぱり似てくるものなのかしらねー」



「なにが」



「なんでもなーい。ねぇまゆちゃん、今の聞いてどう思った?」



「怒ってるのかほめてんのかわかんない」



「褒めてるの、まゆ。今のは最上級の褒め言葉よ。ふふ。あなたはいつも罪作りなのね」



「褒めてないっ!」



 うん、褒めてないと思う。



「とにかく、こいつはそんないいやつじゃないわ。ただルックスが少しよくて、それで収入もいいってだけ。性格は最悪よ」



「憲邇さん性格最高だよ。こんな人いないもん」



「あ……うん、そうね。あたしと相性が悪かっただけかな。あなたとはきっと、うまくやってけるんでしょうね」



 少し、寂しそうに。あ、また泉がにやにやした。



「ふっふーん、呼んで正解だったなー」



「なにが」



「未練たっらたらじゃない」



「どこがよ! ふざけないで!」



「なーに? 昨日思い極まって寝室の前まで行ったくせに」



「っ……どうして知ってんのよ!」



 私同様、泉も驚いた顔をした。



「嘘、マジかよ」



「あ……ち、違う! トイレに迷ったから、聞きに来ただけっ!」



「ダメよ、今はあたしが借りてんですからね。勝手にとってったら、利子いただきますから」



「違うって言ってるでしょ! 誰がこんなやつと! 大体、あいつは今日三人で同じ部屋から出てきたんだから、ほんとは、ほんとはもう……」



「もう? なに?」



「……なんでもない」



 なぜか彼女は少し落ち込んでしまった。



「そっか。じゃあここであたしもカミングアウトしましょう。実はあたしとせんせーは付き合ってなんかないのです」



 ああ、そういう扱いにするんだ。



「……え」



「せんせーは今フリーよ。そこの絵里さんと関係を持ってそうだけど、違うみたい」



「そ、そんなの信じられるわけない。同じ屋根の下で暮らしてるのに恋人じゃないなんて、そこの仕事なメイドさんじゃない限りありえないでしょ」



「おや? なんでせんせーが誰と付き合ってるかそんなに気にするの?」



「えっ……そ、それは泉がそんなこと言うから、ちょっと、気になって……」



「そうだよ沢田(さわだ)さん。女の人は恋話が好きじゃないか」



「へっへっへ。確かに好きかなぁー。ね、巴ちゃんは今好きな人いんの」



「いないわよ。あたしは好みがうるさいの。あんたはどうなの、せんせー?」



「私? 私は……まゆちゃんが好きだよ。ね、まゆちゃん?」



「うん! あたしも憲邇さん大好き!」



 今は、そういうことにしといて欲しい。



「……ふぅん、誤魔化すんだ。こーんなによりどりみどりなのに」



「そういう言い方はよくないよ」



「じゃあさ、静香さん? あなたは誰か好きな人いるの?」



「……せんせ」



「じゃあ千歳さん、あなたは?」



「先生です」



「広子さんは」



「同じ人です」



「良子さんは」



「もちろんご主人様です」



「泉、はいいとして、えーっと、尾方さん、でしたっけ」



「あら、私に聞くの? そうね、誰とは言わないけど、精神科医で今年二十七歳の今同棲してる人かしら」



 あの、みんな? これは一体、なに?



「いい、そこの深町(ふかまち)さん? みんなね、返事はあとでいいって、好きだって告白して保留してもらってるっていうの。いい加減にしなさい。優柔不断にもほどがあるわ。誰かを選びなさい。そりゃあ、想っていられる今が一番幸せかもしれないわ。でもはっきりしたほうがいいに決まってる。あんただってそろそろ身を固めたほうがいいでしょ。ちょうどいいわ、今ここで、誰にするか決めなさい」



「……」



 参ったな。泉はまたとんでもないことを吹き込んでくれたものだ。尤も、実際とあまり違いはないのだけれど。



「いいんだよ、巴さん」



「えっ……あ、あのね、今はちょっと黙っててくれる?」



 まゆちゃんは黙らない。「いいの。ね、憲邇さん、今持ってるから、またつけてよ」



「うん、わかった」



 彼女の元まで歩いていき、いつもの場所にある指輪を、彼女の左手に着けた。まゆちゃんは誇らしそうにそれを掲げる。



「ね? もらったの。左手の薬指につけなさいって。そういうことなの。ほりゅうってなんのことかわかんないけど、あたし九年たったらほんとに結婚してもらうから。さっき嘘なんて言ってないよ。あたしも憲邇さんも好き。お母さんだって好きかもしれないけど、指輪もらってないもん。こういうの、早いもの勝ちでしょ? あたしの勝ちなの。みんな親子だって言うけど、でも恋人なんだ。ほんとだよ? もうキスだってしてる、一緒にお風呂だって入ってるんだから」



「そ、それは……」



 竹花さんにも、言えないだろう。例え子供をあやす意味の言葉でも、彼女にとってそれが支えとなっている今は。竹花さんは人を思い遣れるできた人だ。子供に対する嘘だとわかっていても、嘘だと、言えないだろう。



 言わないで欲しい。嘘などではけして、ないのだから。



「……だ、だったらっ。だったらダイヤにするべきよ。子供用のなんて失礼だわ」



「そのときになったらちゃんとしたのもらうの。憲邇さん嘘、つかないから。待ってるの。へへ、別れちゃうなんてバカだねー。おかげであたししあわせだよ」



 ふふんとくるくる回転する。ちらちら、私を窺う。嬉しくて思わず微笑むが、しかしよしなさいとたしなめるために咳を一つしてしまった。すぐに止まる。



「……よかったね。そっか。あたしはてっきり、お父さんになってほしいのかと思ってた」



「それでもいいよ。憲邇さんがやっぱり、お母さんがいいって、指輪返してって言うなら我慢する。それでもキスできるからいいもん」



 抱っこしてと両手を広げた。持ち上げると、じっと見つめ目を閉じた。竹花さんの手前頬にそっと口付けた。まゆちゃんは不満そうに「もう、憲邇さんシャイなんだからあ」とそのまま頬ずりをする。



 竹花さんは尾方さんを捕まえ、なにごとか話していた。きっと、現実を知ったときのまゆちゃんの悲しみを教えているのだろう。でも、いいのだ。事実なのだから。後九年経てば結婚する。その事実に変わりはない。



「あ、そーだ。ね、みんな、お買い物行きましょー? 巴ちゃんをもてなさなきゃ」



「え、いいわよ、別に」



「主賓の意見は聞いておりません。先に買ってくりゃよかったなー。あ、巴ちゃんはここで待っててね。それと、男の人が来たところで意味ないのでせんせーはお仕事でもしててください。じゃ、みんないこっか」



「ちょ、ちょっと泉!」



 含み笑いをして、竹花さん以外を急かしさっさと部屋を出て行ってしまった。あっという間に、部屋には二人だけになる。



「……あいつ、昔っから余計なお世話ばっかり」



「なに?」



「なんでもないっ」



 竹花さんはふんぞり返って、脚を組みなおした。そういえば、広子は仕事以外だとあまりストッキングを履かないような気がする。この前はどうだったっけ。



「……七歳の子に、嘘でもあんなこと、言っちゃかわいそうよ。いくら子供の気持ちはすぐ変わるからって、信じきってるじゃない」



「そうかな。もし気持ちが変わらなくて成長してくれるなら、いい年になると若いからきっと私は求婚するんじゃないかな」



「なによロリコン。あんたなら、それまでにいい人いるでしょ。あんなにたくさん、かわいい子がいるのに……」



「かわいい子と結婚したい訳じゃないよ。そりゃあ、結婚できたら嬉しいけど」



「そうね。泉から聞いたわ、あんたの女性遍歴。女なら誰でもいいのよね? 別に、あたしみたいな美人じゃなくてもよかったんだ」



「好きになった君が、美人だっただけだよ。美人だから好きになった訳じゃ……いや、違うな。美人だから好きになったんだと思う」



「……あたしは、あなたから見て、今も美人?」



「もちろん。君は綺麗だよ」



 そう答えることになんの迷いもなかった。時折メディアで見る彼女の透き通った表情は、見ていて勇気を刺激される。



「……あたし、竹花巴っていうの」



「竹花さんは」



「巴」



「……」



「あたし、巴なの」



 私は力なく首を振った。彼女が、私たちの一列に加わることはありえない。先も言ったとおり、他の女性と会話をするとは嫉妬を隠そうともしなかった。今のこの関係を、告げてしまうことほど怖いことはない。



「……なによ……やっぱり、好きな子いるんじゃない……」



「私は、久しぶりに会った懐古の想いが強いだけだと」



 頬がはたかれる。「誰が好き好んで、元カレのとこに泊まりにくるのよ! いつまでたっても鈍感なんだから! 気づいてよ! あのときだって、あなたからずっと、言ってほしかった……」



「……」



「今も綺麗だって、美人だって褒めたりしないで。また戻れるかもって、それが一番つらい……言ってよ、好きな人、いるんでしょ? そしたら諦める。尾方さんが好きじゃないの?」



 隠さないということは、楽な選択でしかない。私は楽がしたい。だから大抵のことは隠さないでおく。けれど、これは言えない。これだけはけして。



「私はまゆちゃんが好きだよ。本当に」



「ふざけ、ないでよ……」



「九年後が楽しみなんだ」



「……あなたのそういうとこ、あたし嫌いだった……誰かを守ろうとして、傷つけまいとして、自分ばっかり責められるようにするの……あなたと一緒なら、誰になに言われたってよかったのに……」



「私はエゴが強いんだ。ごめんね、本当に」



「あたし、今でもあなたが好き」



 彼女は一歩ずつ、こちらに近付いてきた。



「忘れられる時間がなかった。忘れさせて。思い出をちょうだい。どっちでもいい。乱暴にしてくれたら、嫌いになれるかも。前みたいに優しくされたら、いいアルバムにしまえるかも」



 お互いに手の届く距離まで近付く。座っている私に乗りかかるように、首に手を回した。



「みんな、あたしが好きじゃない。あたしと付き合えてる、自分が好きなだけ……それだけなの、嫌よ……」



 言いながらそっと、抱きついてきた。一瞬だけその感触を楽しみ、ぐいっと思い切り、引き離した。



「……」



 目に見えて涙し、ビンタをしようと手を振り上げ、そのまま止まった。力なく、しおれる。



「やめてよ……そんなことされたら、余計諦めれない……」



「テレビ見たよ。綺麗だった。誇らしかった」



「違う、違うの……あんなの、あたしじゃない。ほんとのあたしは、あなたの前にいたのは、ただの普通の女なの……あなたが好きなのがモデルのあたしなのか、それとも竹花巴なのか気になってしょうがない、嫉妬してばっかりのくだらない女……」



「どちらも竹花巴だよ。どちらも君で、君でしかないんだ。だから私は、好きになった」



「……やめ、てよお! なんであなたは、誰も言わないこと簡単に言うの! ひどい、ひどいよ……」



 ひどいと、彼女は何度も繰り返した。やはり私は、傷付けることしかできないと思う。どう慰めていいのかまったくわからず、さりとて抱きしめる訳にもいかず、ただじっと、彼女が泣き止むのを待った。



「……あなたからしか聞けない言葉に、特別を感じちゃう……遠くへ行くとわかるの。あなたと同じこと言う人、男でも女でもいなかった。そりゃあ、モテるはずよ……」



「……」



「……ああもう! 最悪……バッカじゃないの、あたし……」



 必死に涙を拭って、私から離れた。とすんとソファーに座ってお化粧を直しだした。



「会って吹っ切るって、なかなか難しいわね」



「……」



 まっすぐ前を向いている、今の竹花さんはとても、美しく見えた。



「なに。女が化粧直してるのじっと見るもんじゃないわ」



「ああ、ごめん」



「……あたしくらいの年ってね、女子高生じゃないんだから電車の中とか、人前で化粧直したりなんてしないのよ。するのは、化粧室と自分の部屋、同性の前、もしくは、もしくはそれぐらい、見せてもいいって思えるくらい、深い……気の許せる、相手」



「……」



 この人はまだ、気を張り続けているのだろうか。厳しい世界で生き続け、擦り切れてるように見えた。私がせめて、と思ったが傷が塞がったとも思えないうちに別れてしまった。女性は未練がましくないから、楽しかった思い出としてみてくれているといい、それぐらいしか考えなかった。私しか言わない言葉など、ないと思う。誰かは彼女のためになにかをし、親しくなりたいと、力になりたいと思っているはずだ。それがわからない竹花さんではないだろう。どうして、いい人がいないのだろうか。



「あなたの前で無防備になる人がいたら要注意よ。大切にしてあげなさい」



「そうだね、まゆちゃんは大切にしないと」



「子供はどこだって無防備でしょ」



「いや」



 それは違う。「子供だって女の子だよ」



「なによロリコン。バッカじゃない」



「うん。バカだと思うよ、男なんてね」



「……あたし今日、たまの休みなのよね」



「じゃあ釣りでも行こうか。今日は晴れてるし」



 忙しないのなら、落ち着くことをするといいかな。



「──」



「どうしたの?」



「……あなた、執事でもやったほうがいいと思うわ」



「執事? どうして?」



「なんでもない。そう思っただけ。そうね、二人っきりで遠い岬まで行ってくれるならいいわ」



「わかった。準備しなよ。こっちはすぐ終わるし、待ってるから」



「……ごめん、別に二人じゃなくていい。きっと尾方さんも一緒に行きたがってるわ」



「そうかな」



「それから、今日来た女の子たち全員ね。みんな一緒に行くならいいわ」



「わかった。そうしよう」



「……あなたみたいに、今ほしいものを埋めてくれる人って珍しいわ。ムカつく」



「そう、かな。釣りに行きたかったの?」



「……そんなわけないでしょ。じゃっ、準備あるから。ほかの子たちに伝えといてよね」



 返事を待たずに、彼女は部屋を出て行ってしまった。



 



 



 本日は晴天なり。風も凪、人も多いので絶好の釣り日和だったのだろう。



 みゆとまゆちゃんはやはり釣り経験などなく、初めてのことになにもかもが楽しそうだ。どころか、やったことがあると言ったのは泉だけで、竹花さんも含め誰もが初体験だと言う。うん、選択を誤った。やはり釣りは男の趣味なのだな。落ち着けるのなら植物園という手があったのに……



「意外だな、お母さんもやったことなかったんだ」



「ないわねー。ほいっ」



 軽く釣り竿を投げる。その割にはもう手慣れたものだった。



 とは言うものの、私とて幼い頃父親に連れられた経験と、後は施設のおじさんに連れて行ってもらったのが全部だ。のんびりできた印象が強く、釣果云々より釣り竿を垂らしているのが楽しかった。



 広子や良子はまず餌を付けるのに苦労した。見た目が彼女たちには受け入れがたかったみたいで、慣れるまでは代わりに私と泉が付けた。みゆとまゆちゃんは新鮮さに何度も嬌声を上げていたし、千歳と静香は揃って同じ竿を使い、なぜか同じ魚ばかりを釣り上げていた。尾方さんは基本的にまゆちゃんを見ながらで、自分に魚が食いついても気が付かないことがままあった。泉と私はみんなを見るのに忙しく……



 竹花さんは竿を地面に刺したまま、ぼうっと水平線を見ていた。時折、こちらに目をやる。みゆに魚がきたものの、重いのか引っぱられていっていた。慌てて私が手を重ね、釣り上げてみると大きな、えーっと、これはなんだろう……キスの一種かな? ぴちぴちと飛び跳ねるのでみゆは「わっ、わっ」と触れずにいた。釣り針を取ってボックスに入れる。大勢で来たためかあっという間に半分が埋まっていた。もう一つ持ってきたほうがよかったかもしれない。



「今日はお魚尽くしですね……お刺身てんぷら、姿煮もいいですね」



「そうだ葛西(かさい)さん、この前お寿司屋さんで知ったんだけど、骨だけをからっと揚げてもおいしかったよ」



「はい、おいしいですね。わかりました、作ってみます」



「へー、そんなのあるんだ。私にも教えてよ」



「ダメだよお母さん、みんなに教えてもらうの。葛西さんの料理の腕前はもうその辺のいたまえが束になったってかなわないんだから」



「あら、板前ってなんのことか知ってるの?」



「知らない」



 また笑顔になる。まゆちゃんたちはやはり女子で、常になにかを話していた。聞いてるだけでも楽しいもので、あまり話さないのはみゆと静香、それに広子ぐらいだろうか。



 後は、竹花さん。



「……なんか、親戚一同わいわい遊んでる感じ」



「そう?」



 一人だけ少し離れたところにいる竹花さんのところへ行く。好きだった清涼飲料水を持っていくと、受け取ってくれた。隣に腰を下ろす。



「別に、あたしと一緒にいなくてもいいわよ」



「引いてるよ」



「え」



 ぐいぐい動く竿を慌てて持ち上げ、一気に引っぱると小さな魚が顔を出した。竹花さんはくすりと笑ってそれを海に放す。



「あたしがこんなところで釣りなんてしてるって知ったら、仰天する人しかいないでしょうね」



「そうかな。別に普通だよ」



「普通じゃないわよ。……ねぇ、餌がうまくつけられないの。手伝って」



「うん」



 彼女の持つ針に手を伸ばした。少し体勢が辛かったので、体ごとそちらに乗り出す。うまく付けられたので顔を上げると、



 唇になにかが触れた。



「……」



「……誰も、見てないから」



「いや、そうじゃなくて」



「なによ……いいじゃない、少しくらい」



 ふいっと、視線を海の向こうへ戻した。軽く竿を前に放る。彼女が小さくなにかを呟いたが、潮騒に紛れて聞こえなかった。



 背中から声がかかり、大きいのがきたから手伝って欲しいと言われた。私は腰を上げようとして、



 裾を、つかまれる。



「隣に、いて。もうちょっと。もうちょっとでいいから……」



 こちらを見ずに告げてきた。私は思わずそのとおりにしようとして……今は彼女の、なんでもないことに気付く。



 軽く頭を撫でて、



「ごめんね、また後で」



 その場を離れてしまった。



 結局かなりの数を釣ってしまい、ボックスがいっぱいになったところでやめておいた。一番多く釣ったのは尾方さんだった。



 夕食は本当に魚ばかりになった。良子の料理のレパートリーはさすがで、私が言った骨だけを揚げたものもあった。



「ちょっと、いいって。なんであたしが隣なんか」



「そこしか席はないんでーす。いいから座れって」



 私の隣に竹花さんが座った。いつもなら隣にいるのは大抵まゆちゃんで、次は泉か、千歳だった。彼女はじっと私を見、ふいっと逸らした。



「竹花さんは今日お帰りになるんですか……もう少し、ゆっくりしていっても」



「ありがとう。でも仕事があるから。こいつと一緒よ、忙しくってしょうがないの」



 頭を小突かれる。



「でも……そろそろ、いいかなって気もするの。泉には言ったわよね、もうそろそろこっち戻ってきてもいいかなって」



 それは初耳だった。交通の不便さからここを出て行ったのだと言っていたのに。



「あたしは戻ってきてほしくないね。せんせーとられたら大変だもの」



「とらないわよ。しつこいわね……」



「じゃあなんで戻ってくるの? 仕事は順調でしょ?」



「……別に、なんでもないわ。ただ、地元が懐かしくなっただけ」



「ふーん? まあいいや。帰ってきたらちゃんと連絡してよ? また実家遊びに行きたいし」



「うん、もちろん。みんなも遊びに来てね。歓迎する」



「はい、ぜひっ」



 静香は彼女に対する憧れが強いのだろうか。あれくらいの女の子はカッコいい大人の女性に、憧れたりするのだろうか?



「今度はあたしがおもてなしするわ。料理だってあたしに作らせてよ。練習、したから……」



「?」



 なぜこっちを見るのだろう。



「絶対、来てよね」



 今度はみんなのほうを向いて言った。笑顔だった。なにか少し、変な。



 帰る段になっても、違和感は拭えなかった。さよならも元気がない。



「電車間に合う?」



「ええ、大丈夫……」



 見送りに、なぜか誰も来なかった。少し待っててと言うが、そろそろ時間も危ないような。



「……」



「? どうしたの?」



「いえ……」



 少しでも元気付けられればと、私は笑って言った。



「元気でね。応援してるよ。君が頑張ってるのをずっと見てる」



「……あたし、巴だってば……」



 最後に、軽くお腹を小突かれた。



「バーカ……あんたなんか、大っ嫌い……」



「……」



 すぐに彼女の車が闇に消えた。そっとお腹をさする。



 以前のように呼ぶことはもう一生ないだろう。そこに一抹の寂しさを覚える程度には、私は彼女のことを好きだったのだな。



 ああ、男は醜い。



 



 



 



 



 想いが叶うのが怖い。叶ったあとに、わたしの本性を知られて、きらわれるのが怖い。



 袖を上げ、あの人に治療してもらった左腕を見つめる。もう、触れても痛みは戻ってこない。右腕についた夥しい傷痕も、もういくら触っても痛くなんてなかった。



 ずっと痛いままなら、傷は一つでよかったのに。



 ……あの人はわたしが傷つくと、自分も傷ついているように見えた。ううん、きっとそう思いたいだけ。そんなはずない。ありえない。



『言えないなら言わなくていいんだよ』



 うれしかった。また涙が出る。うれしすぎて気絶しそうになった。ようやく話せるようになって、でも自傷をするとは戻ってしまう。なのに、また……誰もそんなこと言ってなかった。口が動かせないやつなんか人間じゃないって、言ってる気がした。ただの被害妄想だってわかってても、なにかを一言でも話せるようになんてなれなかった。



 塞ぎこんでばかりだった。学校にも、家にも、町にも、わたしの居場所はなくて……どこに行っても一人。わたしは目つきが悪く、人に誤解され、それじゃないのに周囲に煙たがれてく。ケンカの仲裁をしたのに、すべてが終わったあと、学校と家で叱られたのはわたしだけだった。助けた人もわたしのことを庇ってくれなかった。家でも問題児。勉強も手をつけないので、ことある毎に両親はわたしを罵った。わたしに近づいてくる女子はいなかったし、男子も告白やそういう目で見られたことがない。あったとしても、気がつかなかった。……孤独がわたしを苛む。心がどんどん擦り切れていって……周りに冷たくなって、悪循環。それが小学低学年の頃。



 高学年になり、一度誰かに話しかけたことがある。といっても、ただ単に伝達事項を伝えてほしいと先生に頼まれ休んでいた人に言っただけ。誰かは非常に驚き、何度か頷いていた。席に戻ると誰かの声が聞こえて、その内容に少し驚いた。うれしかったって、そう言った気がする。誰だったかわからないけど、わたしのことを気にかけてくれていたんだ……そう思うと、なんとなくわたしもうれしかった。のに……



 数日後、誰かの声をまた聞いた。わたしの名前を聞いた気がして。それは……少しの事実を大げさにした、よくある噂の尾ひれ葉ひれだけでわたしを完全に決めつけている言葉だった。ケンカの仲裁を、怒ると手がつけられない、なにするかわからないって。勉強ができないのは、危ないこと、クスリやエンコーに夢中だからって。そんなやつとは、やっぱり話したくない。お近づきになりたくない。最低。いいなって思ってたのに。幻滅。



 ……



 そこで誰かと視線があった。誰かは、侮蔑と、憤りと、落胆を合わせた、二度と見たくない表情で顔を歪め、そっぽを向いた。周りの友人たちも似たようなものだったと思う。



 ふと、クラスにいる人たちをじっと見ていった。誰も、彼も、わたしと視線があうと、誰かとほとんど同じ表情をとる。忌憚ない、親しみが……誰もない。当然だった。誰とも、ろくに話すらしていない。これに気づかなかった、わたしがおかしいんだ。



 誰もいない。それは、話しかければ応じてくれる。けどそれは嫌々で、事務的なこと以外は避けたいと思っている。現に、それからまた何度か、今度は普通の話題、テレビや流行りの話題を振ってみた。答えてくれなかった。よくわからない。知らない。そればっかり。知らないはずはない。昨日、あなたたちが話しているのを聞いたから話したのに。



 誰もいない。



 周囲に人がいるのに、誰もいない。



 これが孤独。



 そのことに気づいたときにはもう、手遅れだった。



 話すのが怖くなってしまってた。話せば、あの言葉を聞いてしまうかもしれない。大人は叱ってくる。なにもしていませんと、一度勇気を出すこともできなかった。誰に話しかけられても、顔を動かして答えることしかできない。誰かに話しかけることはもう、できなくなってた。



 そのうち、叱られること、話しかけられることの大半がなぜ話さないのかになる。



 話すことくらいできるでしょう?



 口も動かせない赤ちゃんなの?



 黙っているのが一番卑怯だ。



 怒られることしかなくなった。前は平気だったそのことが、今度は怖くてたまらなくなる。言わないと不都合ばかりで、でも言うと余計拍車をかけるだけだと勝手に思い、口はますます固くなってく。言えば悪いのはわたしだから、謝りなさいと言われるのも怖い。二回も勇気を出すなんて、できるはず、ないから。言われるたびに、わたしは本当にダメな人間だと再確認してく。卑怯で、ずるくて、ほめられるところなんてなにもない、つまらない人間。嘘ばかりつき、都合が悪くなると黙る最低の女。



 そうだ。叱られて当たり前なんだ。だったら叱られてよう。そっちのほうが相応しい。わたしなんかにはぴったりだ。謝ったってきっと許してくれない。今さら喋ったって、喋れるなら最初から話せよともっと叱られるに決まってる。黙ってたほうがいい。そのほうが楽だ。どうせ、自分はこんなのなんだから……



 わかった。わたしがダメだから、いけないからみんなは勘違いするんだ。ううん、勘違いじゃない。本当にそうなんだ。わたしは怒ると手がつけられなくて、クスリやエンコーに夢中の最低の女の子。そうだったんだ。



 両親も、噂の払拭はしていなかった。仕方のないものだと、受け入れているように思えた。そもそも会話が、なくなっていた。あの人たちも怖くなっていた。叱られてばかりの厳めしい目つきが怖い。家に帰るとは逃げるように部屋に鍵をかけ、一人ぼうっとしていた。なにをしているかなんて知らない、なにを話せばいいかなんて。



 町で遊んでいればあるいは、どうにかなったのかもしれない。けど素行が悪いわたしに小遣いはほとんどなく、お金を使うことはできない。ただ町を歩いているだけなのは……まるで意味がなかった。



 興味、趣味がないのがいけなかったのかもしれない。打ち込むもの、得意なものや誇れるものがあれば、友達がいない程度で、話ができない程度で悲嘆に暮れることもなかったかもしれない。でもわたしは、それらを共有できる友達がいないのに、これから作れないのになにかに手を出そうとは思わなかった。趣味を持てば、そこから友達はできていくものかもしれない。でも、それでもし、その友人がわたしをまた噂で判断して、離れていったら? 今度はひどい言葉で罵られたら? あるいは、クスリかエンコーをしようと、してもいいだろうと強引に襲い掛かってきたら? そういう、悪い想像しかできない自分もいけなかったんだ。なにも手を出せなかった。興味を持とうとも、思えなかった。なにより、最初の一歩を踏み出すための会話が、できるはずなかった。



 こんなわたしと、話してくれるはずないんだから。



 努力しない、わたしが悪い。そんなのわかってる。弱い人間が悪いのは当たり前なんだから。でも、話せない。話して、わたしの存在を全否定されるのが怖い。



 お前なんかいらないよって、周りにいる人全員から言われたら、生きていけなくなる。



 わたしは生きていくために必要なものはすべてある。着るものも、食べるものも、住むところもある。



 けど、わたしにはなにもない。



 それで……生きているなんていえるのかな、って思うのはすぐで。



 でも生きていたくてたまらなかったから。



 だから、自傷に逃げた。



 自分でつけた傷を見ていると、その痛みを感じていると……生きているって、実感が湧いた。生きてていいって、生きなさいって、傷口が言っている気がした。泣きながら、そこを舐めて口づけをした。ありがとう、って。



 血が出るから、わたしはいる(・・)んだ。そう思えた。



 最初は怖くてほとんど傷らしい傷はつけられなかったけど、そんなものはすぐに加速していく。なんでこんなことしてるのって、毎回思うけどでもやめられない。まず利き腕の反対の右腕が傷だらけになった。次に利き腕。それが終わると、お腹。太もも。胸。服で隠れないところ以外は、ほとんど傷だらけ。お風呂に入るとき、裸になって鏡台の前に立ったとき、その禍々しさに自嘲できるほどに。やりづらいから、利き腕にはまだ傷は少なく、きっとこれから増えてくんだと思う。そうなるのに、一ヶ月もかからなかった。治りかけの傷はかゆく、それを払拭するために傷は深くしてしまったりもした。……徐々に、痛みが心地よいものにも変わっていく。じわじわ溢れて止まらない血は温かくて、止血なんてしようとも思わなかった。浅い傷は水に触れると心地よい痛みになる。だけどそのままにしておくと段々それが薄れるから、いったん外気に晒して少し待ち、もう一度元に戻すとまた実感(いたみ)が沸いた。部屋も当然汚れる。わたしは上から上からいろんな物を置いて、隠し続けようとした。けど、



 それが両親に知られた。



 父親の激昂ぶりはすさまじかった。痕になるのなんてまるで気にせず、引っぱたかれた。母親も止めはしなかった。なんてことをしたの、って。……今さら、家族に求めるものなんてなかったから。してる最中に気づいてくれなかったから。わたしはそれをただ受け入れた。その態度が気に食わなかったのかもしれない。わたしは病院に入れられた。態度を変えなかったから、自傷もしたくてした、と答えると、病院はあっさりわたしを受け入れてくれた。



 病院は、上辺だけの優しい言葉や、思い遣ったような台詞ばかりを吐く。かわいそうにと、憐憫で見てくる。真っ平だった。わたしが弱いだけ。甘えてるだけ。仕事なだけの人たちに哀れんでもらうほど、かわいそうな人間じゃない。



 だから、病院でもなにも言わずに同じことを繰り返した。一切会話をしなかった。できなかった。手に負えないとみたのかすぐに担当が替わって優しそうな若い先生になった。この人も同じだと思った。なにも態度を変えずにいた。この人は……



 一度もため息をつかなかった。



 一度も苦笑をしなかった。



 一度も諦めた顔をしなかった。



 それだけに怖かった。この人の心の奥でわたしがどうなっているのか、気になって仕方なかった。こんなに温かな人はわたしのことを叱ったりしない。そう信じたくてたまらないのに、本音を知りたくなった。



 でも、できるわけなかった。口を開いた途端、今までを罵倒されるんじゃないかって。できることをしないでいるのは怠慢極まりないって、治療をやめるんじゃないかって。



 怖かった。この人もいつか、どうして話さないのと追求してくるんじゃないかって。前の人はわかった。人の顔を窺うことが癖になったわたしは、前の人がわたしを診るのをいやがっていたことくらい。疲れてたことがわかる。なにを話しても一切反応しないわたしがめんどくさかったんだ。自傷をやめようともしないわたしが鬱陶しかったんだ。両親から非難されるのがいやだったんだ。聞いたから、わかる。



 この人は違う。わたしを癒してくれる。受け止めてくれる。ううん、そんなはずない。こんなわたしが、誰かに受け入れてもらえるはずない。話すこともできないなんて、失語症でもないのにありえないから。なにも苦しいことなんてないのに自傷したくなるなんて、子供の癖におかしいから。



 なのに、この人は信じられないことをしてくれた。筆談でいいから会話しようと、言ってくれた。信じられなかった。みんな話しなさいって言った。



 話さなきゃダメよ。



 いいから話しなさい。



 この人は自分から紙に文字を書いてくれた。男の人らしい四角い字だった。



『こんにちは。私は深町憲邇っていうんだ。よろしく。君の名前は?』



 それでも、書きたいという思いに溢れてたのにもかかわらず、しばらくは書けなかった。また呆れられる。きっと、これでもう無理だって、どこかへ行ってしまう。そんな妄想の日々がつらくて、また傷をつけた。



 先生は変わらなかった。増えた傷痕を調べようともしない。前の人は毎日調べたのに。気長に話しかけてくれる。なにも話さない日もあった。この人が書いているときに目を見て、また微笑んでくれるのを何度か楽しんだ。



 微笑んでくれる。笑ってくれる。わたしなんかに笑ってくれる人なんてもういないと思ってたのに。



 うれしかった。うれしくてうれしくてたまらなかった。先生の目の前で何度も泣きそうになった。笑顔を思い出して、うれし泣きをしてしまうことが二度三度じゃなかった。



 ただ手を広げて待っていてくれることが、こんなにもうれしいことだなんて。理解しようとしてくれることが、話を聞こうとゆっくりしてくれることが、こんなにも。



 勇気が湧いた。それでも、今日書こう今日書こうと思って勇んでいても、実際に書けるのに数日かかった。



『わたしの名前は水村詩音です』



 それだけ。先生はまた笑顔で、



『お返事ありがとう。いい名前だね。澄んだ、クラシック音楽みたいな静謐な響きがする』



 と、答えてくれた。



 好きになった。一も二もなく好きになった。仕事だってわかってても好きになるしかなかった。ありがとうも名前をほめてもらったのも初めて。ありがとうって、ありがとうって、ありがとうって……! その紙が、ただの紙がほしくてほしくてたまらなくなった。先生は紙はあとで捨ててしまう。それはこの部屋でもあるし、多ければ持ってってしまうこともあった。お願い、今日はここにしてと、たくさん念じた。願いが通じたのか今日の会話はわたしの病室のゴミ箱に収納された。あとで全部漁って、目的のものを回収する。……何度見ても、信じられなかった。わたしの名前に、読みづらいと文句をつけられたことあっても、澄んでるなんて、静謐なんて言われるなんて……このとき初めて、面倒だと思ってた名前が好きになれた。



 自分を少しだけ、好きになれた。



 先生は喜びでまた返事が書けないわたしにも、催促なんてしなかった。それよりコミニュケーションができたことがうれしそう。うれしかった。先生がうれしいことがうれしかった。



 先生が悲しいことが悲しかった。わたしの治療が一向に進んでないことを、ほかのお医者さんから叱られてるのを聞いた。できないことが悔しそうだった。でも、でも……頻度はすごく減ってるって、教えたかった。日常茶飯事のように、息を吸うように自傷してた以前とは違う。教えたかった。知ってほしかった。わたしのことをもっともっと。



 先生のことを知りたい。せめて、結婚してるかどうか。してなくても、わたしはまだ今年十四になるばかりの小娘で、チャンスなんて宝くじよりないかもしれない。あの女の人が隣にいる想像ばっかりしてしまう。お似合いの人だって、すごく思う。大人の人。大人の普通の人。



 でも、完全に道が塞がれているよりは。少しでも可能性があるなら、生きていける。まだ知らないから、わたしは平気でいられると思う。知ってしまうと、現実に打ちのめされるかもしれない。スタートすらしてない今だからの安心と、知ってしまったあとの希望と絶望が戦ってる。それでも知りたい。なんでもいいから知りたい。せめていくつなのか、それと誕生日に血液型。占えるなにかがあれば、占って打ちのめされたい。



 前に進みたい。わたしだって、早く自傷はやめたい。普通になりたい。普通になって普通の暮らしと、普通の恋がしたい。学校だって行きたい。せめて義務教育ぐらいはこなしたい。



 他人から普通に見てほしい。ずっとそう思ってる。



 今ですら普通に見てくれる、してくれるあの人は、奇跡そのものだった。



 だから、今までで一番怖い。



 



 



 



 



 正直な本音を言わせてもらえるのなら。わたくし、沢田泉はまゆちゃんのお母さんにはせんせーを頼ったりせずに実家に引っ込んでいただきたかった。確かに別に一夫多妻であることに文句はないよ。しかしねぇ、せっかく一族の長女だったのが次女に格下げとなると、威厳がなぁ……



 というのは冗談。ほんとは……こういう関係になったとしても、あたしは勝てるか勝てないかを考える。この人には勝てる、この人には負けてる……じゃあ頑張ろうって、考えられるのは子供であるときだけ。大人になって簡単に変われるほど、できた人間じゃないのよね、あたし。勝てない相手には嫉妬をしてしまう。心の奥で勝手に千歳ちゃんや広子ちゃんに負けてないと思っていたあたしは、とうとう勝てない相手が出てきたことに沈んでいきそうだった。ああ、みゆちゃんには負けてるけどいいって思えるの。あの子には勝てなくていい。けど、ほかの子には負けてないっていう、自信があったのよ。



 せめてさー、良子さんみたく半同棲ならまだそんなに危機感は感じないけどさー、そこまで四六時中一緒ってのはなー。確かに、今のまゆちゃんを見てたら仕方ないことかもしれないけど。



 ああ見えるとおり、せんせーはレイプされて精神的に参ってる患者さんを多く診てきた。治療したあと、付き合ったりもしていた。せんせーは否定するけど、相手の子は付き合っていましたと堂々と言っている。多くの勇気をもらったんだって。例外なく時間がかかったけど、でも治らないことはなかった。せんせーは治療を受けに来れる人はまだ救いがあると、言っていた。純情すぎる子は、その時点で自殺をすることが多いらしい。あるいは誰にも言えず一生抱え込み、二度と恋愛をしないか。そういう人たちこそ診てあげたいと言っていた。バカだ。



 けど。みゆちゃんとまゆちゃん、この二人のようにあまりにも幼すぎる時分からレイプをされると、どうなるのか。せんせーはできる限りのことはしている。みゆちゃんに至っては自分にわざと隷属させることで人形であることを許さなくした。以前となにも違わないかもしれない。けどたった一つ、最重要事項が違う。二人は、愛し合ってるということ。愛の形として、せんせーは彼女に必要だと判断したから隷属させてる。それが正解かどうか、判断するのはあたしじゃなく家族だと思うのでおいといて、同じケースが生じた、まゆちゃんの場合。今回は両親にバレている。同じことは母親が許さない。母親はむしろ、父親とすることで解決を図ろうとしている。恐らくそれは誰もが認める、正しいことであり責任なんだと思う。でも、それは……まゆちゃんだけは認めないでしょうね。



 彼女はふとしたとき、くるくる回っているか、スカートをひらひらさせるか、それか……左手の、恐らく薬指を見つめていることが多い。それがなにを意味しているのか。母親ならすぐわかってしまう。



 みゆちゃんとまゆちゃんは違う。明らかにみゆちゃんは誰かに頼らなければつらくてしょうがない子だ。まだ七歳な上にあの境遇なら仕方ない。でも、まゆちゃんは? 以前は元気いっぱいだった。せんせーにべったりじゃなくて、ちゃんと学校の子たちといっぱい遊んでた。それが……変わってしまう。二人、そっくりになってしまった。今ではもう、誰よりもせんせーを求めてる。母親の監視がありもうえっちなんてしていない。させてくれるはずがない。とすると、どうなるか……



 あたしは、七歳で純情でない子なんていないと思う。



 そもそもの原因はせんせーだ。小学校一年の女の子相手にマジで興奮する変態のせいだ。それを考えたら遠くで暮らそうとするのは当たり前。そうしてほしい。それが正しい。なにもかも丸く収まる。まゆちゃんの傷だって時間が癒してくれるでしょう。



 あたしは、必ずしも正しい行動が正しい結果を、健やかなものを残すことなんて実際そうはないと思う。最善の行動が最高の結果を生むなんて、誰にわかるの? 試合で勝てたのはあそこでああしてたからだ、なんて後付けでしょ?



 絵里さんはそれがわかったから正しい行動を選ばなかった。決して正しくはないけど、彼女は唯一まゆちゃんを抱いたという罪を赦すことができる。赦したんだ、あの人は。娘のためを想って。誰かのためを想い、いけないことだとわかっていてもその選択を選べる意思がある。



 せんせーそっくりな。



 ああそう、お似合いだってわかるから憎いんだ。夫婦は長く暮らしてると性格が似てくるっておばあちゃん言ってたっけ。似たもの夫婦にしか見えないから、嫌なんだ。



 ナンバーワンの人を羨望だけで見れる人がいたらあたしの前につれてきてよ。ぶん殴ってやるから。嫉妬しないやつなんて人間じゃないわよ。ごめんね、あたし言うことほいほい変わるんだ。何人いたっていいなんて嘘。セフレでいいとか、冗談もいいところ。



 この指輪があたしだけのものだったらよかったのに。きっとみんな思ってる。もらえたことが嬉しい。同時に、あたしだけじゃない、特別じゃないことが憎い。きらめくイエローが、光を小さく反射する証が、恨めしい。



 ……いっそこのまま出勤しようかしら。結婚指輪になんて見えないけど、着けている位置でどうしてを問いかけてくれる人がいるかもしれない。そこで言っちゃえばいいのよ。籍入れちゃいましたって。



 無理か。あの病院ではせんせーの恋人は不特定多数、もし看護師の中にいるんなら広子ちゃんってことになってるし。誰もせんせーとなんて信じちゃくれないよね。



 この気持ちを忘れるためには。



「どうしたの、こんなところに呼び出して」



 せんせーと特別ななにかを経験するしかない。



 あたしは非常階段の踊り場でせんせーに背を向け、音もなく白衣のワンピースの前をはだけさせた。ポケットに入れてあったものを口にくわえ、振り返る。驚いて目を大きくしたせんせーにそっと囁いた。



「女にここまでさせといてなにもしないなんて失礼ですよ」



「……こんなところでできないよ」



 言うと思った。「してくれないなら、着てる服びりびりに破いてから大声で叫びますよ。いいんですか」



「……ごめんね。ありがとう。私もこういうシチュエーションはそれなりに好きなんだ」



 吹っ切ると早かった。誰かが来るかもしれないところでセックスなんて初めてのあたしは、どちらかというと恐怖が大きくてぎこちなかった。が、しかし。せんせーの変態度は果てしなく、早めに済ませないといけないのにいつもどおりに責めてきやがった。



「……ん……もう、早く……っ」



 この際痛くっていいです。痛いほうがいい。痛かったら忘れられない。そこまでしてもらったって思える。まゆちゃんたちのように。



 まだ下着の上からいじられるだけ。そういう、かんしょ、あっ、味わってる、ばあ、いじゃ、ないん、のにぃ……



「……誰かに、みられっ、たら……ほんとに、お嫁にもらってくださっ、いい……」



 あたしを、選んで……



「それはできないよ。ごめん。我慢してもらうしかない」



「……も、もういいですからぁ、早く、早くして……」



 予想外に興奮してる。後ろから責められて。小さい胸をぐりぐりやって、乳首を転がしてもらうのが気持ちいい。いつもみたいに、首を噛んだり舐めたりされるのが気持ちいい。扉のほうに手をつけ、体を正面から向けられて、開けられたらあたしの痴態が一発でバレちゃう。その状態で後ろからあそこの中に指が入ってる。パンストもぱんつもめくられた。ほんのちょっとでもう信じられないくらい濡れて、上のほうへ行けば行くほど締めつけちゃう。絶対すぐバレる。おっぱいだって丸出し、口にコンドームくわえてる、変態にしか見えない……恐怖が体を燃え、上がらせる。あ、とってもらった。い、いいですよ、あたしが、つけ……っ。あーもう、声を我慢するの、つらい……っ。



「……うっ……あっ……ね、は、やくぅ……」



 あたしのこの声より、ちゅぶちゅぶっていじってる音のが大きい。もう、わざとで、あっ。



 首を後ろに回され、キスされる。そんなことはいいからとにかく早くしてほしいのに、この人は焦らして焦らしてしょうがなかった。



 コツ、コツ、コツ……うわ、うわわ。「だ、誰かこっち来ますっ」



「しーっ……静かに」



「……」



 足音が規則的に続く。この音は五十川先生だ。今、この場面を見られたらどうなるのか……まったく想像つかない。



「ああっ!」



 いきなりせんせーのが挿入(はい)ってきた。思わず漏れた大きな声に涙が出てきた。ひどいですとせんせーを睨むと悪戯っぽい顔で突いてくる。いやっ、もう、変態っ……あっ。な、なんでよ、どうして、こんなに気持ちいいの……んっ。



「自分で誘ったんだよ。これぐらい覚悟しておきなさい」



 ひどい、ひどすぎる……隠すようにしてくださいよう……でもこの囁き声に秘密の感じが、頭をのぼせ上げる。足音が止まった。扉の近く。せんせーは容赦なく突き続けてくれてる。ぐちゅぐちゅ音が集中しなくても聞こえてる。あたしはなんとか口を手で押さえてるけど……扉はある。のに、やばい。これ、バレちゃうぞ……こ、こうなったら、襲われてるんですって、言い訳しよう……



「五十川先生、お時間よろしいでしょうか」



 遠ざかっていく足音に変わった。ほっと一息、胸を撫で下ろす。



「残念だね。綺麗な泉を見てもらいたかったのに」



「……へん、たいっ……あっ、あっ」



「おっと。そろそろ本当に危ないかな」



 今度は口を口で塞がれた。話せない、から、目を閉じれず、言いたいことを目で伝える……あーもう、キスの味なんかわかんないはずだったのに、なんでこんなに気持ちいいのよ……バックは好きだけどさ……んっ、もう、次誰くるか、わか、あっ、んないからぁ……早く、射精()しちゃいなよ……っ。早く射精してもらわないと、あたしのほうが先にいっ、イッちゃいそう。いつも同じくらいなのに、今日は先走って一人で、しかも大声出しそう……お、お願いします、絶対、口、離さないで……っ。



 せんせーの目が「変態だね」っていう妖しい光を放ってた。心底、この状況に興奮してる目だ。いやらしい、ほんとに変態な瞳……官能に身がよじられる……あたしを捕らえて離さない、大切な……



 あたし、ここまでします。最初に言ったとおり、ほんとは言わないってわかってたから断言しましたけど、でも今ならほんとに、裸で病院歩き回れって言われても聞けますから。だから捨てないでくださいとは、言いません。でもそれくらい、好きだってこと……わかってください。



「……」



 せんせーが頷いたように思えた。わかっているよって、優しいのが一瞬見えた。あたし、これはわかるよ。わかるから……それくらいは、仲良いんだから……もうあとはただ、目を瞑って快感に身を委ねた。この人の頬をなぞって、この人の口の中に何度も愛の言葉を囁いた。好きですせんせーって、気持ちいいですって、何度も。喘ぐ声も大きく、せんせーの中だけに出した。それは外に結構漏れてたかもしれない。でもいいや。それでもいい。そのときはそのとき。この人の奴隷ですって堂々と言うから。



 目を閉じると音がよく聞こえる。せんせーの熱い肌がよりよく感じられる。また誰かが歩いてくる音が聞こえた。けど気にせず、奥に感じる甘いものを口にして出した。結合部から発せられる音も大きい。扉の外にいるのが女性ならきっと見ようとせず離れてってくれる。男性なら諦めよう。だって、あたし今愛の営みしてるんだから。やめたく、ない。ぐちゅぐちゅしてたいの。口をちゅっちゅしてたいから。変な音いっぱい出して、変なお汁いっぱい出すの。もう、下着にもパンストにも愛液染みちゃってるけど、せんせーがこのままお仕事しなさいって言うならする。今扉開けなさいって言われても喜んでする。口を離されても気にせず喘ぐから。



 やっぱりあたし、この人のことどうしようもなく好きだから。



 あたしのつらいの、わかってくれてここまでしてくれるの、嬉しいから。



「……っ!」



 思いっきり口を吸われて、力強く引き寄せられて射精してもらった。体が大きく反る……また、一緒にイけた……唇を離してお互いの間に透明な糸を走らせる。下腹部の熱いたぎりに、崩れ落ちそうになる。落ち着いてからせんせーのが抜けて、改めて自分を見渡すとすごい汗の量だった。うわ、ちょっと匂ってるとやだな……



「甘い匂いがするね」



「……はっ、はっ……」



「誰のかな?」



「……はぁ……もう……」



 まったく、キザなんだから。



 時間さえ大丈夫ならそのまましばらく二人きりでいたかった。せんせーはあたしのうなじが好きらしく異様にさすってくるし、それを受けるのも心地いい。でも、まあ、予想外に濡らしちゃって、後始末が大変だなーっと思っていると、あたしが今までどんなことをやってきたのかがよーくわかった。冷静になるとあたしもただの痴女で、セックスが好きなだけだ、って……うわー、びしょびしょ……少ないと思っていた羞恥心がもこもこと盛り上がってきて、顔面を赤い絵の具で塗りたくっていった。この格好は、実は、かなり、正視に耐えない。



 こんな思い出は強烈すぎて、ほんとに忘れられそうにない。ある意味、痛いよりずっとショッキングだった。あたしと関わりが深いとこって仕事だからと、考えたのが失敗。もう二度とやらない。……せんせーが求めてこない限りは。



 そろそろ休憩も終わりにしないと、あとが大変……



 下にいる人と目があった。



 奈々穂ちゃんだった。



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 



 第十二話あとがき的戯言



 



 三日月(みかづき)まるる、以下作者「外国の愛称というのがいまいちよくわかりません」



 尾方まゆ、以下まゆ「なにそれ」



 作者「こんばんは、三日月です。このたびは「ごめんなさい」第十二話を読了くださりましてありがとうございます。二度目ましてのまゆさんです」



 まゆ「こんちは」



 作者「まず始めに。自傷行為に対する治療及びその他の病に対する治療法は、今回までに憲邇さんがしているもので正解などでは、決してありません。あくまでその患者さんに対してのみであり、これはフィクションです。こうすれば治るという訳ではありません。お近くに自傷をしてしまう方がいらっしゃっても、このとおりなんだと新しい偏見で見ないようお願いします。すみません、蛇足でした」



 まゆ「じしょうってなに?」



 作者「憲邇さんに教えてもらってください。パトリシアはパティ、レベッカはベッキーだそうです。ウィリアムがビリー、というのは一体どのような法則なのでしょうか」



 まゆ「うぃりあむ……どこにもびりーとかないのにね」



 作者「例えば日本語圏ですと、みゆさんやまゆさんなどはみーちゃん、まーちゃんなどと呼ばれたりしますよね」



 まゆ「男の子だとまーくんだよね。さちこっていう人はさっちんて呼ばれてるよ」



 作者「憲邇さんだとけんちゃんでしょうか」



 まゆ「……イメージわかねぇなぁ」



 作者「私も似つかわしくないと思います」



 まゆ「ねぇ、こんやく指輪ってさ、ダイヤモンドじゃないといけないの?」



 作者「いえ、そういう訳ではありませんが、一般的ではあります」



 まゆ「ちゃんとしたのだとダイヤモンドかなぁ……楽しみ」



 作者「まゆさんですと誕生石でもあるのでその可能性は高いでしょうね」



 まゆ「たんじょうせき?」



 作者「生まれた月々に応じていくつか決まっているものがあるのです。一月だとガーネット、四月だとダイヤモンドなどなど」



 まゆ「へぇー。憲邇さんは?」



 作者「それでは今回はこの辺で。さようなら」



 まゆ「教えろよー。さよなら」



 



 20090412 三日月まるる



 




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テーマ : 官能小説 - ジャンル : アダルト

2009/04/29 20:54 | 小説COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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