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「ごめんなさい」その五十一_外伝第二話_家族の関係

 こんにちは、三日月です。
 寒い日が続きますが、みなさん雪かきはしましたか? 自分だけコタツでぬくぬくしていてはいけないと思いますよ。私も翌日筋肉痛に襲われまして大変でした。雪なんかほどほどでよいのに。
 それはそうと四十八話、タイトルが抜けていて焦りました。なぜ気づかなかったんだろう。すいませんでした。
 そんなわけで外伝更新です。外伝ですがぜひ読んでやってくださいませ。
 拍手が思いのほかたくさんで嬉しい限りです。ありがとうございます。






















 外伝番外編 二 家族の関係








 十八年前








 娘の様子がおかしいことには、薄々気がついていた。四六時中息子とともにおり、片時も手を離さない。先に産まれたと言っても精々が九ヶ月、ほぼ年の変わらぬ弟に、寄り添い、付き添い、そして……依存している。


 
柚香里(ゆかり)は、産みたかった。覚悟もあった。きちんと育てる自信もあった。できていると知ったときは驚いたけれど、それだけのことはしたのだからと。


 けれど
憲邇(けんじ)は、予期せぬ妊娠だった。きちんと、あれだけ大変だったのだからもうしばらく避妊をしようと、きちんとコンドームを使っていたのに。それも出産からあんなにすぐだなんて。


 ただ。子供を中絶することだけは、絶対に選びたくなかった。それだけはできない。例え私が息絶えたとしても、子供が生きていればいい。うちの人はまっすぐに育ててくれる。そう信じて、また産む決心をした。


 若すぎた我が身は耐え切れずに、憲邇は早産してしまった。
2000gに満たぬ、小さな体。でも息をしていた。小さく泣いていた。当時若すぎたために病院へは行けず、助産婦と家族に助けてもらった。おばあさんが取り上げる我が子を、同じ子供の、十三の小娘が抱き上げる。おままごとのような光景に、二度目ならずとも目を背ける人もいた。


 でも、私が産んだ。お腹を痛めて、必死で産んだ。好き合った人と生涯を近い、ああおままごとかもしれない、指輪の交換も先にした。お互いのお小遣いと貯金を、全部つぎ込んでそれでも、安い指輪を。


 好きだった。幼なじみのお隣さんの彼が、誰より好きだった。駆け落ちしたっていい、当時はよく知らなかったけど、この国はいいことが起きてるからきっとやってける。そう思っていた。まさか産みたいと言って、おじいちゃんもおばあちゃんも、父も母もいいと言うとは思わなかった。今でもなぜかわからない。答えも聞けない、あっという間に、私の家族は父だけとなってしまった。父に聞いてもはぐらかすばかりで、なにも答えてはくれなかった。


 ただ、憲邇をかわいがるばかり、柚香里をかわいがるばかり。うちの人も、憲邇を撫でて撫でて、痛そうな息子を見るとやめてと言いそうになるけど、どこか嬉しそうなほっぺにいつも飲み込んでしまう。私はといえば、そんなかわいい二人にいつもキスの雨を降らすだけ。したくてしたくてたまらないほど、柔らかでぷにぷにの唇なんだから。


 十六の誕生日に、正式にプロポーズを受け。向こうはあと二年よと、おかしかった私に、気づかなかったと笑う、大好きな人。二年後にはひっそりと式を挙げ、


 二年後にはひっそりと、天国へ行っちゃった。まだ二十歳あまりで、新婚わずか二年で、嘘のように亡くなってしまった。七つの娘息子を残して、夢のように死んでしまった。二年経った今でも、実感が沸かない。起床の目覚ましで起きれば、子供二人を挟んで、向こう側にどうしてあの人がいないのかと、いつも疑問に思う。そうして頭が覚醒するうち、爆発的に増えた自動車に、ひかれたのだと、事故で死んだのだと、思い知らされる。棺の中で焼かれていったのだと、お骨の感触まで、蘇ってくる。


 耐えられなかった。私は若すぎた、若すぎたくせにバカをやり、子供を産もうとしたろくでなし。隣で布団にくるまる二人がいなかったら、とっくに泣き崩れてる。


 その子供も、うまく育てることができない。今年の小学校で運動会に行けるかどうか、授業参観は、懇談会は? また代わりの父が行く可能性が高い。看護婦の不規則な仕事から帰るまで、起きてようとする二人を面倒見てくれる父がいなくなったら、どうなるか。考えるたびに背筋が寒くなる。そんな想像を振り切るように、二人を唇で起こしていった。


「おはよう、柚香里さん、憲邇くん」


「おはよう、母さん。ゆぅちゃん、起きて」


「ん……おはよう、憲邇、お母さん」


 柚香里は……単なる姉弟の、仲良しこよしじゃ、なかった。弟を見る目が、もう違う。


 私があの人を見る目と、そっくりだった。私の瞳が、彼の瞳に映るのを何度も、お布団の中で見た。それと同じ。今も布団の中、二人の……瞳は、はっきりと主張していた。


 そんなわけないわ。振り切るように布団をはがし、いつものように弟の胸の中で寝ている姉から視線を逸らし、考えを逸らし、「さぁ顔洗ってらっしゃい」と、いつもの声を張り上げる。


 ただ仲がよい、だけよ。もう少し大きくなったら、自然と知るわ。学校で今までのように結婚するだの、お嫁さんになるだのを言おうものなら、そろそろバカにされる。そのときに気づいてくれる。わざわざあれこれと、母が教えるものでもないわ。せっかく姉弟仲良しなのに、それを崩すなんてできっこない。


 父を起こしに行き、朝の喧騒に溶け込むうちに、鳴り続ける警鐘から目を逸らしていった。今日は昼番、普通に夕方帰ってこれるんだから、しゃんとしないと。昼番は家族サービスの日って、決めてるんだから。あの人の分まで、私やるんだから。見ててね、
雅実(まさみ)さん。私がしっかり、育てますから。


「け、憲邇。今日は学校行ってよね」


「ゆぅちゃんも熱が引いたんだから行くんだよ、僕だけじゃない」


「ううう、でも、でもお休み明けは……」


 わかっていた。柚香里がいじめに遭っていることは。けれど憲邇が血で血を洗うことをまったく厭わずに仕返しをしていたために、私の申し出はもう、二年生のときからまともに取り合ってはくれなかった。『相手だって泣いているんです』と、信じられないことばかり。今年の担任はいい人で、頷いて『させません』ときっぱり言い放ち、事実少なくはなっている様子。でも、まだ、続いてる。歯がゆい思いと、休みの取れぬ現状。食べさせるには働かなくちゃいけない。けど働いていたら、柚香里と憲邇の育児がないがしろになる。一人親はこんなにも辛いのかと、何度痛感させられたか。


 父は、立て続けにいなくなった自分の両親と伴侶に、魂を抜かれたかのように老け込んでしまった。あれほど開放的で遊び好きだった面影がなくなり、穏やかな老人とすらなっていて、とてもこの荒事に介入して解決できるとは思えない。


 親たる私がするほかない。でもどうやって? 考えているうちに出勤時間が近づき、その思考時間すらない現実に打ちひしがれる。


 ……でも。私は産むと決めた。心に決めた日から、くじけるわけにはいかない。


 あの人に会いたい。何度も叫びそうになる弱音を、どうにか押し殺して。








 入院患者のいつもの検温。いつもしてるのに、入院二週目の男の子は今日も緊張しっぱなしだった。


「そんなに体固くしなくていいのよ、腕固めてると血圧測れないわ」


「あ、ごめんなさい、つい」


 初入院であれもこれも緊張の連続という、うぶな小学三年生。隣にも憲邇と同い年がいて、二人並んでいるのですぐに覚えちゃった。息子とは同じ学校ではないみたいでちょっと残念。


「そんなにお姉さんが美人かしら? ダメよ、お姉さんこれでも子持ちのお母さんなんだから」


「え、いや、嘘でしょ? 俺らお姉さんの年知ってるんだ」


 隣を見やり、うんと頷く大人しそうな
五十川(いそがわ)くん。この活発なスポーツ少年の相良(さがら)丸刈りくんと違い、なかなか話しかけても答えてくれない。


「あらぁ? ふぅん、減点一ね、女性の年をみだりに知ろうとする子はお仕置きです」


 でこぴんをしてあげた。「いってー、俺骨折してんだぞっ、いいのかよ看護婦さんがそんなことしてっ」


「生意気言うなガキんちょが。あんたが折ったのは足でしょ、サッカーでハッスルしすぎて、なに蹴って折れたか言ってやろうか?」


「う、うるせーよっ」


「あはは、もういいわよ、ごめんごめん。はい、今日も元気ね、一日頑張んなさい」


 かわいい盛りね、本当。


「なぁ、俺いつ治んの? いつまで入院?」


「聞いてなかったの? 頭の中までサッカー少年か、素晴らしい」


「いいから教えてくれよ」


「あと一月はいてもらうって先生は言ってたわ。あとは小僧の頑張り次第。どれだけ大人しくしていられるかよ、早くまたシュート決めたかったら、今だけ我慢なさい。はい、五十川くんも腕出して?」


「う、うん」


「一ヶ月かぁ……短いなぁ」


「ん? あーあんたまさか、勉強しなくて済むから入院してたーいとか、考えてんじゃないでしょうね?」


「そ、そんなんじゃねぇよっ、バカにすんなよなっ」


「あはは、ごめんごめん。ああちょっと高いなぁ、熱っぽい?」


「だっ、大丈夫」


「んん……」この子のおでこは、子供ということを差し引いても私より少々高い。


「ちょっと熱っぽいわね、氷枕持ってきとくから、じっとしてなさいね」


「平気です、いつもこのときだけ、熱くって」


「ああ、やっぱり緊張する? ごめんね、注射痛かった?」


 大げさなまでに首を振ってもらった。ちょっと嬉しい。


「……か、看護婦さん、美人だから……」


「お、言うねぇ。その年でお世辞言えりゃあ大したもんよ。ありがとう」


 ほっぺにキスをあげる。ここも熱いわね、一応先生に言っておかなくちゃ。


「ほ、ほんとだよ。僕、看護婦さん、好き」


「うふふ、ありがとう。でもごめんね、私には娘も息子もいるの。今は恋愛なんてできないわ、ごめんなさい」


 それ以外は特に異常もなく安心する。小さい病院、小さい病室。子供二人でもきっと狭苦しく感じていることでしょう。せめてと、いいお天気の窓を開け放っておく。ああ、海が近いっていいわ、風もある。


「じゃあな少年たち、宿題はきちんとやりなさい」


「はーい」


「退院まで欠かさず宿題こなしたら、ご褒美にお姉さんのおっぱい触らしたげるぞ?」


「えっ、ほんと?」


「さぁどうかしらぁ」


 ああ、純真無垢でかわいいこと。色気づきやがって、ふふ。憲邇もきちんと宿題してたらご褒美あげるとかやりたいのに、いつも真面目だから困りものよね、ふふ。


 あの年でもう、私に気を遣い出しているんだから。本当に……困りものだわ。


「お前ずりーぞ! どうやったら熱出るんだ?」


「知らないよ、君も好きって言えばいいじゃないか」


「言えっか、バーカ!」


 あれだけ元気ありゃあっちは充分だわね。


 ここはまだまだ小さな病院で、看護婦の数も十に満たない。けれど交通の便利さからか、患者さんはいつも後を絶たず大盛況。もちろん先生の数も足りず、みんなろくに休みがとれてない。古い建物だからそろそろ建て直しをして、人も来るのだから大きくしたいという話が出ているみたいだけど、私は夢物語だと思う。今が好景気とはいえ(そろそろなんだか怪しそうだし)、実現したとしても十年は先ね。大きくするならやっぱり、大学病院のようなところが先でしょうし。


 ここも本当に開業当時は、町医者だったと院長は語る。徐々に徐々に景気の波が押し寄せ、周囲に民家やビルが建ち並び、自然と大きくせざるを得なかったんだとか。人も増え車も増え、あれよあれよと今のままでは患者さんを診きれなくなる。そうして今の大きさにちょっとだけ拡張したのも、ずいぶんと前。語る院長ですら自分の祖父のことだって言ってたから、ここの歴史は長い。戦災で焼けなかったためにいろいろと駆け込まれ、軍に使われ、泣いたことも少なくないのだと、白髪のおじいさんは言う。なぜか年をとったおじいさん院長は私を(若いからと)目をかけてくれ、懇意にしてくれる。後妻に狙ってるのよとまことしやかに噂されているけど、奥さんの写真楯をあんな顔してみる人はそうとは思えない、なんて言うとますます拍車がかかるのでやめますけども。


 おじいさん院長は今も現役で診察をしている。どこぞの大学病院と違い、ここは白くもなく巨塔でもない。まだかくしゃくとした先生は信頼できると、患者さんの評判も厚い。隣にいてもまだまだボケるには早いわねと、いつも思うわ。


「一息つけるかな、やれやれ」


 確かに診察待ちはようやく解消され、毎日凝りに凝る肩を自分でとんとんとやっていた。大変そうなので揉んだげよう。


「ああ、ありがとう……そうだ、こいつ、あとで見といてくれんか」


「はぁい……あ、先生。これはいけません」


 またのお見合い写真だった。これで何回目かしら、よく懲りずに持ちかけますね。


「言ったでしょ、私は今自分のことに構っていられるときじゃないんです。丁重にお断りさせていただきますね」


「大変だっていうのはわかる。だからこそ、頼れる夫をそろそろ迎え入れたほうがよいと思うんだが」


「余計なお世話ですよ、おじいさん。私の頼れる夫は、今でも心の中に生きています。毎日くじけそうな私を励ましてくれてます。別の人なんてありがた迷惑なんですよ」


「……そうか。君は強いな、はは……僕など、ついこないだ死んだ妻のことを、偲ぶフリをして酒に溺れる毎日だ……」


「あら、いけません、院長先生に倒れられたら困ります、私は誰からお給料いただけばいいんですか?」


「はは、僕が死んだら、遺言で君に財産を全部くれてやりたいくらいだよ」


「あらあら、財産目当てで院長先生と結婚しちゃおうかしら」


「断る。僕も心に妻がいる。だからだろうな、大切な人生の片割れを失くしたもの同士、君とは波長が合うんだろう。僕は幸いにして、この年まで一緒だった。だが君は違う。その若さで夫を失うことは、半身をもがれたに等しい。この年寄りでいいのなら、いくらでも泣きついてくれんか。ああ噂などさせておけ、僕は君が泣くと、まるで妻が涙してるようで見ちゃおれん」


「似てるんですか、奥さんと」


「ほくろがね、位置までそっくりだ」


「へぇ、それは光栄です」


 雅実さんと似たようなことを言う。あの人も右目下のほくろがチャーミングだよと、変な言葉で褒めてくれたっけ。


「そっくりなだけに、泣いているとすぐわかる。表面はどれだけ笑顔を取り繕おうとも、内面の涙がすぐほくろに滲んでしまう。そんなとこまで妻にそっくりなんだ、君は」


「やぁだ、先生口説いてるようにしか聞こえませんよ」


「真剣に考えちゃくれんか」


 すっと、もう一度お見合い写真を渡される。「君の明るい振る舞いに、最近無理が多い。無理をしてほしくはない。患者さんにまで伝わるのもよろしくないしね。いい男だと僕が保証する。会うだけでもしてやってくれんか」


「……考えておきます」


 院長先生の顔も立ててはおきたい。けど、本当にそんな余裕はなかった。夜番から帰ったときに子供たちが二人とも、学校の時間なのに家にいることがたくさんある。柚香里は体も弱く、頻繁に熱を出し、つられて看病に憲邇も休む。それが原因で学校はぎくしゃくする。もっと楽しい学校生活を送らせたいと、本当に今はそれがきがかりで自分のことは二の次でしかない。家庭に入れればそれは理想だけれど、相手の人と憲邇はともかく、柚香里が円満な家庭を作れるか。それより私がしっかりしたほうがいいと、今は確信している。


「ゆっくり休みをとらすこともままならぬ現状を、院長として申しわけなく思っているんだ。はめを外して、仮面を取って、たまにはガスを抜いたほうがいい」


「……はい。ありがとうございます」


 涙の出る、思いだった。ありがたく、申しわけなく。三人を食べさせていけるほどいただける上に、これが安定している。これほど心優しい先生の下で働けて、これ以上の職場はないと、きっぱり言えるわ。本当。


「まあなんといっても、君が元気にお尻を振ってないとこっちもやる気が出なくてね、いい尻も触りがいもない」


「あら失礼しちゃうわ、こんな若くて張りのあるお尻に向かって、いい年こいてくだらないこと言ってると色ボケジジイに成り下がるわよ」


「先生またやってるんですか?」


「ああ
岡山(おかやま)さん、今日はどうされました、また腰を痛めましたか」


 次の患者さんが入ってきたけど、院長と親しいおばさんだったので仰天はしなかった様子。大抵オチはこんなところに落ち着くので、初診の患者さんは面食らっている。おじいさんが悪いんです、最後に年がいなく笑わそうとするんだから。


 穏やかな声の傍で働けて、本当によかった。








 岡山のおばあちゃんからお饅頭いただいたので、休憩にみんなでもぐもぐ。すっかり腰の調子もよくなって、またお花屋さんに復帰できるそうな。


「おじいちゃん青ざめてたからねぇ、岡山さんとこ。よくなってよかったわ」


紗絵子(さえこ)さん、また院長先生からお見合いもちかけられたでしょ? どんな人? カッコいい?」


「ダメダメ、見た目は危ない刑事の足元にも及ばないわ。
彩子(あやこ)さんだって今いいとこなんでしょ?」


「収入は? 私のことなんてどうでもいいじゃない、年収は?」


 うまくいってないのね、ご愁傷様。


 どうしようか迷ってここまで持ってきたから、みんなに見せちゃおうか。


「はい、これ」


「おおー!」


 看護婦連中が寄ってたかって、人のお見合い写真とステータスに夢中になっていった。ほんと、今年なりたての十八なんてついこないだまで女子高生だったからねぇ、しょうがないっか。


「いいなぁ、かわいいお坊ちゃんじゃない。この年で専務の年収も一千万なら、
3Kのこんな仕事ほっぽりだして嫁げばいいのに」


「院長先生のことだから九つの娘息子がいることくらい言ってるわよ、気にすることないわ」


「そういう問題じゃありません。悪いけど困ってるの。瞼を閉じれば雅実さんが笑ってる。それなのに別の人と再婚は考えられないの」


「あ……すみません」


 悪いとは思うのか面白がるネタを閉じ、手渡してくれた。よろしいと改めて一応、念のためにめくってみると、確かにいいとこのおぼっちゃんとしか思えない、穏やかな顔をしたエリートさんが緊張した面持ちで写真に写っていた。


 子供たちのためを思うなら、この人の稼ぎで暮らしてったほうがきっと楽はできる。今から家事だって学生時代散々花嫁修業はした。まさか自分が働くことになるとは思ってなかったけれど。


 子供たちのためを思うなら。安易にこの人と結婚するわねなんて、言えるはずもない。お見合いに出向くならもちろん子連れで行くしかない。柚香里と憲邇がいいと言わなければなにも意味がない、相手もわかってくれなければ。


 問題は少なくない。だから、それよりは現状維持のほうが考える必要がなくて楽だと、思ってるのに。


 ただ……いい機会かも、しれない。おじいちゃん先生が私を無理していると、言った。それは重い言葉だわ。長年の経験に見つめられれば、剥がれ落ちる軽い鎧なのでしょうね。


 ぱたんと、閉じる。返事は決まった。せっかくの昼番、帰ってすぐ子供たちに相談しよう。その前にもう一口、最後のお饅頭いただきねっ。


「あー! 太っちまえっ!」


「ほほほ、うるさいわ、ああおいしい」


 手を伸ばしていた彩子さんから横取りしてやったわ、ふふん。あなたおっとりしてて甘いのよ、お饅頭より全然ね。


 さて、お茶の時間もそろそろ終わり。さあもう一息、子供たちが待ってるわ! おいしいもの買って帰らないとねぇ……そうそう、お花って意外とおいしいのよ、これなんてお花かしら、柚香里は詳しいんだけど、ん?


 目の前に黄色い花束が差し出されていることに、気がつくまで数拍、必要だった。


 見上げると、のっぽさんが照れくさそうに花束を、私に向けて差し出していた。ラグビーだかアメフトだかやってそうな、すごくがたいのいいむきむきの人。


「この前はお世話になりました。改めてお伺いに参ったのは、その」


「失礼ですけど、どちら様?」


 これを言えば諦めてくれる人もいる。けど、白衣の天使に夢見るスポーツマンは怯まない。


「こちらで入院したときにお世話になりました、
稲葉(いなば)順一郎(じゅんいちろう)と言います。よろしくッス」


「はい、よろしく。私はこちらのとおり
深町(ふかまち)紗絵子といいます。二児の子持ちですどうぞよろしく」


 ぺこりとお辞儀すれば諦めてくれる人もいる。が、この人はここまで言っても諦めない人のようだった。


「構いません、自分と付き合ってくださいっ」


「お断りします」


 なるほど、スポーツマンらしい外見同様、まっすぐな人みたいね。稲葉、ああ思い出した。入院中もアプローチしてきたような気がする。


「あのね、今は仕事中なの。休憩中だったけど、うるさいっ」


 向こうからの冷やかしを怒鳴り飛ばし、続ける。


「恋人にしたいなら、白衣を脱いだ私にしてください。今の私は看護婦の紗絵子です。でも仕事終わりは二児の母です。私とお付き合いしたいなら、そのときに言ってください」


「む、はい、わかりましたッス」


 礼儀正しくびしっとお礼をし、のっしのっしと去っていった。が、手に残った花束に気づいたのか、踵を返し。


「すんません、これ持って帰っても育てられないんで、こっちでもらっといてくれませんか。そこに飾っといてもらえば、ほらいっぱい花が」


「あんたみたいなのがたくさん来るのよ、私に限らず、ここの看護婦はレベルが高いとか、面白がってねっ」


「すんません。でも花なんて無理なんス」


「うむ、よろしい。正直に言うだけあんたはマシなほうだわ。入院中もいいつけ守って、でかい図体大人しくしてくれてありがとうね、助かったわ」


「……感激ッス! ありがとうっした!」


 もっと深くお礼を言って、のっしのっしがばったばったに変わって帰っていった。走り出すかと思ったら律儀に歩きやがって。


「紗絵子さん、そういうこと言うからミーハーっぽいバカ野郎が後を絶たないのよ」


「みんなして競うようにお化粧の時間かけすぎじゃなくって?」


 嫌味を言いつつお花を花瓶へ移し変える。よく暇を作って早めに来るものよねぇ。


「なに言ってるの、うちはすっぴんばっかりです。海育ちは美人が多いのよ、知らないの?」


 面白そうにして、こういうときだけ団結して婦長にならうのね。まったく。私に薄幸のオーラでも出てるのかしら。それとも子持ちだからのフェロモンでも感じてる? 嬉しいことに私の看護婦生活はもてもてで、同僚からは冷やかしの嵐だった(でもみんなだって結構言い寄られてるのよ、白衣の天使はポイント高いんだから)。


 今さら誰になに言われようと、心ときめくとは思えない。ありがとうと素直に返事を出せる人はもう、いないんだから。


「紗絵子さんは苦労してるから綺麗なのよ」


「ありがとう、彩子さん」


「本当よ。ちっこいくせに、人知れぬ苦労が美しさの秘訣でしょ?」


「苦労知らずよ、私は甘やかされて育ってるし、実家じゃ父に子育てを任せっきりだもの」


 ついつい口が、回っちゃう。ちっこい。この一言がネックよ。私が童顔で背が低いからって、よくからかわれたんだから。


「あーあ、意地張っちゃって。一応私は同級生でしょ、もうちょっと心開いてちょうだい」


 彩子さんの言うこともわかる。ここにいるうちで、同じ高校を卒業していた二年先輩の彩子さんには、心開きたい部分もある。


 でも今はダメ。みんながいるもの。十代後半の女性は、世界一口が軽いわ。言いたくない。


「ありがとう」


 でも、笑顔になる。ありがとう、本当に。


 頼れる人がいることは。








 帰りにスーパーでお買い物をしてから、自宅へ戻る。昼番の日ぐらいは。朝番夜番は、ほとんど相手ができない。時間が合わない。同じ時間に家を出て、先に子供たちが待っている今こそサービスタイムだった。またいつものように憲邇がやらかしたそうなので、いつものようにお説教をしたから、今日は息子の少し苦手ならっきょを食べさせてやれ。


 お小言を百も承知で、それでもやるんだからいけないの。


 夕暮れを背に、大きな家の戸を叩く。すぐに元気よく、あら珍しい。


「おかえりなさい、お母さん」


「ただいま柚香里さん。憲邇くんは?」


「本に夢中。ほら、お父さんの買った図鑑に」


「ああ、そう。そっか」


 あの人の遺してくれた、唯一のプレゼントだったかしら。将来読んでくれたらいい、今は絵だけでもって、奮発してくれたっけ。


 うちは貧しい。子供へのプレゼントすら、ろくにできていない。雅実さんが存命の頃でさえ、家計は火の車だった。


 子供には楽をさせてあげたい。子供のときくらい……そう思って、彼は高校卒業とともに働いてくれ、私は家計をやりくりしても、暮らしは思うように楽にはならなかった。そのとき既に五歳。父母、祖父や祖母で一緒になって生活をしていなければ、もっと貧しい子供時代を遅らせたことでしょう。唇を噛みそうになるのを堪え、思い切って共働きを考え勉強している間に、雅実さんは旅立ってしまった。


 ……見合い話にすぐはいと、返事をするのは。あの人をとるか、子供たちをとるか。二択を迫られているようなもの。どっちがいいか、そんなのわかりきってるのにっ。まだ二年……彼の残り香が家から消えない、二年。悲しみに暮れる時間を、猶予を、今少し待ってほしいと、泣きたかった。


「お母さん?」


 でも。私に憧れてくれて、長い髪を自慢にしているほっそりとした(ああ! それはもう!)娘には、笑顔でありたい。


「なんでもないわ、ご飯にしましょう。大事な話があるの」


「うん、わかった。手伝うね」


 今日は元気いいわね、熱が下がって嬉しいのね、ふふ。


「あら、髪解いたんだ?」


「え、あ、うん」


 登校時は一まとめに結っていた娘が、さらさらとストレートにしていた。舞うように形を変える黒髪にそっと指を添える。


「そっちのほうが綺麗よ、でもまとめとくと動きやすいものね」


「う、うん。学校じゃ体育もあるし、結っときたいな」


「そうねぇ、柚香里さんはどっちも映えるからいいわ。お母さんは二つに分けちゃうのも好きよ」


「そ、そう? じゃあ今度憲邇にしてもらおうっかな」


「……ええ、そうね」


 自分ですると、最初に言うことは絶対にない。憲邇にしてもらおう、そればかり。


「柚香里さん」


「え、ま、まだある?」


 そっと髪から、頬へ。


「あまり憲邇くんに頼りすぎるのはいけないわ」


「えっ、あっ、あっ、ううう」


「髪形を変えるくらい、自分でやりなさい。できないときに頼りなさい。まずは自分でやる、くせをつけたほうがいいわ」


「でっ、でも、あたしより、憲邇のほうが絶対上手にできるもん」


「憲邇くんがいなかったらできないようでいいの?」


「憲邇はいなくなんないっ」


「いなくなるのよ、いずれ。同じ中学へは入れるでしょう、高校は、大学は? 同じところで働けると思っているの?」


「やだっ、憲邇とはなれたくないっ、ずっと一緒にいるっ、どうしてお母さんまでいじわる言うのっ」


「柚香里さん、落ち着いて聞いて、柚香里さん」


「やだ、やだぁ、せっかく今日、憲邇がやさしくして、くれたのに、っ、はなれたくない、助けてもらったのに、やだ、お返しまだ、だもん。ねぇ、弟でしょ? 家族なんでしょ? ずっと一緒にいちゃいけないの? どうして? 結婚しちゃいけないの? みんな笑うっ」


「柚香里さん……」


 目を背け続けてきた罰が、ここで溢れ返ってしまった。心底、弟を異性と見る柚香里は、ある意味ひどく純粋で、それだけに恐ろしい。


 いい機会だわ。お見合いのことを言うには。これを機に考え直してほしい。自分たちがいつまでもともにいられるなんて、無理なのだと。


「ゆぅちゃん? どうしたの? どこか痛いの?」


 弟は……まだ、理性があった。自分が姉を女の子として見ていることに対する、危機感。早くに多くのものを知ろうとして、吸収の早かった息子は、自分たちが禁断の橋を渡ろうとしていることに、気づいていた。


 余計に、たちが悪い。わかっていても、憲邇は柚香里を、愛さずにはいられない様子がありありと見てとれる。今は幼さゆえに、過保護になっているけれど。


 それすら、私たちの過去を見ているよう。いえ、見させられているよう。こんなにも早く、子供二人がいるのに欠片がなくなったことへの、報い。


「憲邇っ、あたし結婚したいよ、およめさんしたいよ、ねぇ、いけないの?」


「……」


「憲邇? あれ、なんで? 結婚してくれるって、もらってくれるって」


「柚香里さん」


「黙ってよぅ! ねぇ憲邇、憲邇っ」


 仕方なく、平手を打つ。


 もう、ダメだった。柚香里の世界には、憲邇しかいない。仕事仕事の母親は天より遠く、娘の視界には入らない。悲しい、悔しい……


「柚香里さん! あなたは憲邇くんがいないとなんにもできないの?」


「できないぃ! できっこないもん、あたし憲邇いないと生きてけない、憲邇さえいたらどこでも生きてける、毎日頑張れるのっ」


「……っ」


 涙が、滲んでいく……私だって、あなたたちがいるから、かわいい子供二人がいるから、頑張れるのに……子供の純粋な凶器が、私の喉元を突き刺し、血を溢れさせていった。


「ゆぅちゃん、母さんを悲しませるな」


「でもっ、でもお。あたし憲邇いればいいもん。お母さん好きだけど、憲邇と二人っきりのほうがいい。お母さん憲邇とっちゃうもん」


 目を覆ってしまった。この子は、こんなにも傷ついている。寂しがっている。痛い痛いと、今まで必死に叫んできたはずなのに、どうして私は気づいてやれなかったのか……


「ゆぅちゃん、なんてこと言うんだ。母さんは死んだ父さんが大好きなんだぞ」


「知らないっ。あたしたちにお父さんいないもん。あたしのお父さん憲邇だもん」


 また手が、出た。「なんてこと言うの! あなたはあんなに優しくしてくれたお父さんを忘れたのっ」


「忘れたっ。あたし置いてどっかいっちゃうようなお父さんなんか忘れたのっ」


「柚香里っ」


「おうちには憲邇しかいないもんっ。おじいちゃん奥でじっとしてるだけだもんっ。憲邇いればいい、憲邇さえいればいいのっ。ほかになんにもいらない、お母さんだっていらないっ」


「ゆか、り……っ」


 ぼろぼろと目の前が崩れ落ちていくようだった。膝が落ち、娘より低く、うな垂れる。あれほど威勢のよかった暖炉の炎が、隙間風で瞬く間に消えて、しまったよう。


 雅実さん……雅実さん、雅実さんっ。助けて……!


「柚香里、もう一度言ってみろ、僕はお前を許さない」


 ……雅実さんの、声。雅実さんの声だわ。どこかしら、どこにいるのかしら。ねぇ、雅実さん? こっちきて、ぐるぐる抱いてちょうだい?


「お母さんは毎日頑張って働いてるんだ、それこそ身を粉にしてな」


「意味わかんないこと言わないでっ」


「わかってるくせにわからないフリをするのか? 卑怯者のやることだぞ、柚香里」


 ふらふらと立ち上がり、私とちょうど十五センチの、肩の乗せられる高さを探す。……見つからない。あ、いた。雅実さんの顔、ちょっと幼くなっちゃったわね、この頃から好きだったの。


「どうしてゆぅちゃんって呼んでくれないの」


「話を逸らすな、いいか柚香里、お母さんがいなくていいとか、二度と言うな。僕はお母さんが大好きなんだ、悲しませるようなことは許さない」


 ああ、ありがとう。私も大好きよ、お父さん。ふふ、小さな肩、でも借りるわね。あら? つれないのね、抱き寄せてちょうだいな、いつもしてくれるじゃない。自慢の黒髪、あなたが褒めてくれるから伸ばしてたの。いつもみたいに頬擦りして。ねぇ、雅実さん……


 涙が、溢れて止まらない……息子を……面影の似てきた、息子を、夫だと思いたくて、思い込んでしまった……凛々しい叱りの、声に、思い出して、寄り添って、バカみたい。バカみたい! 情けないあまり、思い切り憲邇を、抱きしめてしまった。せめてこの、温もりだけでも、雅実さんそっくりの、温かみだけでも……


 感じないと、やっていけない。


「やだ、やだぁ! ほらみろ、お母さん憲邇とるじゃん!」


「悲しんでるんだ! そんなこともわからないのか!」


「いやだ、はなれてよ、憲邇はあたしのなのっ」


「柚香里、いい加減にしろ! 僕にいつまでも甘えるな!」


「やだ、やだやだぁ、お母さんやだぁ」


「……ありがとう、もういいわ」


 だだをこねるようになった柚香里に、段々意識が戻っていく。父親そっくりに成長している息子に少しの感謝をしつつ、母親そっくりにダメな娘にも、逆に感謝をして。


 離れた途端、ぶつかるように憲邇へと抱きつく柚香里。されど怒り心頭の憲邇は、それを跳ね除けた。


「えっ、憲邇?」


「今の柚香里は嫌いだ、くっつかないでくれ」


「あ、あ、ああ、ううう、あああ……ひっく、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさいぃ、っく、もうしません、もうしないから、きらいになっちゃやだぁ」


「反省してるのか? 僕はひどいことを言う女の子は嫌いだよ」


「う、うん、わかった、っ、もう言わない。ごめんなさいお母さん、ひどいこと言って、お母さん好きだったはずなのに、ごめんなさい」


「ううん、いいのよ。お母さんのせいだから」


「違う、母さんそれは違うぞ」


「ああそうね、足りなかったわ。お母さんのせいもあるってこと。柚香里も悪いぞ、よく反省して、もうあんな……悲しいこと、言わないでね?」


「う、うん、わかった。ごめんなさい」


「よろしい。さぁご飯にしましょう、おいしいもの食べて気分をリフレッシュしましょうか。大事な話があるのよ、二人には聞いてほしいの」


「手伝うよ、ゆぅちゃんも」


「うん。ねぇお母さん」


「なぁに?」


 泣き虫の柚香里、しっかりものの憲邇。二人ともかわいい子供たちだわ。


 だからこれ以上、寂しい思いはさせたくない。決意は強まるばかりだった。苦労も、させたくはない。


「ほんとに姉弟で結婚しちゃいけないの? 先生の言うとおりなの?」


「……ええ、そうよ。姉弟で赤ちゃん作っちゃいけないの」


「……そっか。じゃあしょうがないね。結婚はできないけど、ずっと一緒は平気でしょ? 家族なんだから」


「……ええ、そうね……」


 口が、滑った。


 うまく言葉が、出てこない。


 しっかり、できない。


 途端に楽しげに調理を手伝い出す柚香里に、なにもできず。苦言を呈するようで、その実否定的ではない憲邇に、なにもできず。


 いいとこのおぼっちゃんに身を預けて、楽になれるのなら。不覚にも楽になりたいと、思ってしまった。










 父は夕食の場に同席しない。しなくなった。一人で食べたいと、動こうとしない。説得に時間を使うよりも先に、子供たちのお腹が鳴る。平謝りをしながら、いつも三人で食事をとっていた。


「お見合い? お母さん再婚するの?」


「まだそうと決まったわけじゃないわ。ただ、会うだけ会っておこうかなって」


「うん、いいよ。おめかしして行っておいでよ」


「バカ言わないの、あなたたちも一緒です」


「えー? めんどくさいよ、ほら、そういうのさ、若い二人だけでするんでしょ?」


「柚香里さんも憲邇くんも、こーんな大きな子供がいるってこと、向こうにも教えとかないと騙すことになるのよ。一緒に来なさい、日曜日だったら行けるでしょ?」


 日程と段取りなど、お受けしますと電話一本でおじいさん先生はあっという間に決めてくださった。頭の上がりそうにない。


「うぅん、わかった」


「わかったよ」


「ねぇ、高級なお料理食べれるのかな?」


「そうねぇ、私のお料理よりはおいしいものが食べられると思うわ」


「えー? そう? あたしお母さんのお料理よりおいしいのってないと思うなぁ。高級料理はね、研究したいだけなの。作れるようにって。お母さんの煮付けすっごくおいしいよ」


「……」


 ご機嫌取りね、しょうがないわ、女の子って……っ。で、でも、しょうがないわね、雅実さん。嬉しいわ、ええ、嬉しい……


「ゆぅちゃんの言うとおりだよ、母さんの手料理が一番おいしい」


「……あらあら、うふふ、っ、ありがとう。あんまりお母さんを褒めすぎないでちょうだいな、感激しちゃうわ。なにも出てこないわよ?」


「出てくるよ、母さんの綺麗な笑顔が。ねぇゆぅちゃん」


「ふふふ、うんっ」


 ああもう、この年でずいぶんとまあ口が回ること。嫌な子に育っちゃったわねぇ、ふふ。


「僕ら母さんに甘えてばっかりだからさ、最近つらそうだったし、よかったよ。母さんも甘えられる人だったらいいな」


「うん、そうね。憲邇くん、あなたは本当に聡明ねぇ。ふふふ」


 察しがよすぎる。学校で人から(主にいじめに)じろじろと見られ、逆にそれらを跳ね除けるほど見つめ返し、観察眼があるのかもしれない。


 子供じゃない。本人も子供であろうとしていない。妹たる姉の兄足ろうと、父親不在の家庭で父足ろうと、必死で背伸びをしているのが、わかる。


 だから、間違えてしまった。声が、声変わりもまだの、声が。


「そうだよ、お母さんも再婚したらもっと元気なるよ。男の子がいると違うもんね」


「ええ、そうね。柚香里さん、あなたは本当に素直で、優しいわねぇ、ふふふ」


 純粋無垢で、だからこそ隠れた気性は激しいのでしょうね。お花が好きで、本来は本当に優しく、穏やかな女の子なんでしょう。家事全般を引き受けてくれ本当に大助かりしている。ずいぶんと料理をしても絆創膏を使わなくなった。絆創膏や傷薬、簡単な怪我の手当てもいつの間にか手慣れたものとなっていた。保健室の先生から、いつの間にかお世話になるほうからお世話するほうへ変わっていてびっくりしたと、お褒めをいただいたこともある。


 ただ一点、弟を弟と見れなくなっていることを、除けば。


 正したい。二人とも子供らしくあってほしい。親のわがままかもしれないけど、このまま二人が成長したらなにか道を踏み外してしまうような、そんな危惧がある。


 私たちと同じ道を、歩んでしまうかもしれない。まさか相手が、姉弟とは、ありえないだろうけれど。


 ありえない。本当にそうかしら。柚香里の瞳はどこを向いても、誰をなにを見ていても憲邇が映っている。盲目でしかない。憲邇はどこを向いても、誰をなにを見ても柚香里を見ることができる。


 私は家をかなりの間空ける。看護婦の勤務体制。過ちが既に起こっていないと、言い切れる?


 いえ、いえ。なにを考えているの。まだ二人とも九つよ? 私でさえ道を踏み外したのは十一のときよ、ありえないわ。


「ほら柚香里さん、あーん」


「ん、おいしっ。はいお母さん、あーん」


「うん、おいしいわ」


 畳の上で食べさせあう。にこにこ笑顔。子供らしいまん丸の、笑顔。


 ありえないわ。決して。








 よくも悪くも、相手の男性はおぼっちゃんだった。私より七つ上の二十九歳。年収はゆうに私の倍を超え、選ぶ場所も格式高そうな料亭だった。


 父は珍しく、ついてきてくれた。なにを聞いてもぼうっとしている父が「ああ」と返事をし、それがついてくるという意思表示だと、重い腰を上げたことでようやく気づいた。


 向こうの母親は着物姿のよく似合う、白髪のおばあちゃんだった。いくつかわからないけれど、うちの父よりは年上でしょうね。


 間を取り持ってくれた院長先生に感謝をしつつ、雅実さんとのデートで一度しか袖を通していないワンピースでも、一番上等なはずなのに気後れをしそう。失礼のないようにと思っても、着ていくもののないことに愕然としてしまった。そんな機会などなかったのだと。レンタル……子供たちは制服できちんと正座をしてくれている。躾なんてした覚えもないことを学んでいる。ありがたかった。


 先方は、
塚本(つかもと)昌樹(まさき)さんといって、仕事は実家が経営する会社の専務。若くしてと思ったが本人曰くなんのことはない、跡継ぎが僕しかいないだけの小さなところなんですよと笑っていた。謙遜してるけど、そんな小さいとこじゃなかったはずだけどね、この会社。


 お互いの自己紹介もそこそこにいると、おずおずとおばあちゃんが口を開いてきた。


「あの、昌樹さんいいかしら? ごめんね、おばあちゃんこれだけ聞いておきたいの。そちらのお嬢ちゃんたちは、あなたのお子さんなのかしら?」


 私がわざと後回しにしたところ、言いにくいところをまず確認する辺り、さすが母親と言わざるを得ない。私が親なら、まず聞かなくてはいけないところで、簡単に口を出してしまうのが母というものなのだから。


「お母さん、院長先生から聞いただろう。紗絵子さんの子供だよ。前の人との」


「あら、本当?」


「ええ、自慢の娘息子です。こちらは柚香里、こっちは憲邇です。ほら、挨拶して」


「初めまして、憲邇です」


「……は、は、はじめまして、柚香里、です」


「失礼ですけど、本当に二十二なの? こんなに大きい子が」


「本当です。二人とも私が十三のときにお腹を痛めて産みました」


「……あらあら」


 年齢詐称だと思ってるのかしら、口に手を当てて、なに考えてるんだかわかりやしない。表は柔和な顔つきで、あれは腹黒の典型ね。私が同情を誘っての嘘だと、思ってる顔だわ。


 真実を言っても、誰も信じやしない。昔からそうだった。でもこの場は、この場くらい真実を言わなくちゃ。いけない気がする、この人に対して。


「それは大変でしたね。さぞ苦労したでしょう」


「いえ……」


 この人は疑わないみたい。純粋培養されたおぼっちゃん。見た目そのままの、本当にいい人かもしれない。


「そうね、それは大変かもしれない。でもね、昌樹さんはこれでも、うちの自慢の一人息子なの。残念だけど、大事な跡取りをあなたと一緒にさせるわけにはいかないわ」


「お母さん」


「昌樹さんも目を覚まして、連れ子を二人も連れてくるような人よ? その子も前の夫の連れ子かもしれないわ、いくらなんでも若すぎるもの」


「お母さん」


「あなたも失礼だと思わないの? 礼を知ってちょうだい、この場には正装で来るものよ、バカにして……うちの子に恥かかせないでちょうだい」


「……っ」


 屈辱、だわ。このワンピースはおばあちゃんが買ってくれたものなのに。十九の誕生日にプレゼントしてくれて、一度だけ雅実さんとこれでデートをした、思い出の服なのに。そのあとすぐに亡くなって、みんな一遍にっ。


 うちは貧乏ですと、暗に教えたかった。そんな自分が、どこかにいる。情けない、ただ同情を引くようにと、姑息なだけ。


「おばあちゃんはスーツと結婚して幸せなんですね、すごいなぁ」


「……え?」


 憲邇が満面の笑みで、皮肉を怖いほど込めて言った。


「僕はスーツや着物と結婚してもうれしくも楽しくもないなぁ。相手の事情を知ってても自分たちに合わせないと文句言うんですね、すごいなぁ、礼儀知らずだなぁ」


「なっ、なんですって?」


「調べたんでしょ? うちのこと。お見合いを持ちかけられたけど半信半疑で、一応恩義のある院長の顔を立てて受けると言ったけれど、相手をきちんと調べないと気が済まないんですよね、こそこそうちのまわり人がいましたよ、聞きまわってた。うちが貧乏だってすぐわかったんでしょ? それでこんなとこ呼び出すんですね」


 気づかなかった。


「全部知ってるくせに、できないと門前払いか、わかってるなら断ればいいのに、来させておいてこっちに泥を投げるのか、いい根性だな、厚顔無恥もはなはだしい、金で面の皮が厚いのか、クソババア」


「なっ、なっ、なっ……」


 怒りと驚きで言葉も出ないようだった。私もだ。憲邇がこれほど豹変するのは初めて見る。


 まるで……


「これはお前が見合いをしてるのか? 違うだろう、お前がほしいのは『従順な召使い』で、『息子の嫁』じゃない。ここは息子の見合い場だ、お前の眼鏡に敵うかどうかは二の次、帰れ恥知らず」


「なんですって! あなた一体どういう教育してるのよ!」


「こんなときなにも言い出せない、母に反抗心すら持てなくする最低な教育よりマシだよ。帰ろう母さん、縁がなかったんだ」


「え、あ、憲邇くん?」


 立ち上がる息子が息子と、思えなかった。別人のように見受けられる。


「あたしも、おばちゃんきらい」


 柚香里がそれにならい、私はめちゃくちゃになったお見合いにどうしたらいいのか、母がおろおろしてしまった。


「昌樹さん、こんなバカにされていいの?」


「……お母さん、調べたって、本当?」


 憲邇が父を立たせようとしている。父は目を細め、一連の騒動を見つめて頷いていた。


「調べるでしょう、うちに相応しいかどうか。品格が重要なのよ、あんなそこらの野良猫とあなたがくっついたら大変だわ」


「……バカにしたのはこっちじゃないか……」


「母さん、立って」


 手を差し出す、憲邇が雅実さんに、また見えた。思わず手が伸び、立ち上がり。私自身わけもわからぬまま、その場を立ち去った。


「ここ、料理はおいしいのにな」


 ぼそりと先頭に立って歩く憲邇が呟く。


「そうなの?」手を繋いだ柚香里が訊ねる。


「うん、一度来たことがあるんだ。たまご焼きがすごくおいしい」


「へぇ。じゃあ食べときたかったなぁ。憲邇たまご焼き大好きだから」


「そうだね」


「……ねぇ、憲邇くん。本当に家の周りに人がいたの? 嗅ぎまわってた?」


「いいや。僕たち子供にわかるようにはしないよ」


「だったら」


「目がわかってての嫌味の、顔だった。あれは母さんのタンスに着ていくものがないってわかってるから、面白がってつけ込んでる顔だった。母さんと話してるんじゃないんだ、薄い青のワンピースと話してるんだ。自分たちがほしいのは着物を着た家政婦だって、顔に書いてある。あんなとこに嫁いでも家事手伝いと同じことしかさせてもらえないよ、下に見られてろくろく旦那と」


「ちょっと憲邇、どうしたの? なんか変だよ」


「変じゃない、ただ、おじさんの言ったことと丸まる一緒で、落ち込んでるだけさ」


「おじさん? 誰? どこのおじさん?」


「もういいじゃないかっ。くそっ。母さんがなにしたんだっ、僕たちはこういう人間ですって、一番わかりやすい格好で来ただけじゃないかっ」


「憲邇、お前のように見合いに正直に来るものはそんなにおらんよ、紗絵子のようにバカ正直なやつも。うまく仮面をつけて、体のいい嘘をついて、その加減で判断するんだ。この人でいいかも、とな」


 珍しく父が口を出してくれた。「大人とはそういうものだ」


「僕は子供だ、それで幸せになりたくない」


「憲邇、初めから全部話してしまってどうする。つけ込まれるだけなんだよ、わかったろう。人同士は最初は馬が合わないくらいでちょうどいいんだ、知り合っていくうちにうまく付き合えるようになる。最初からお前のように無鉄砲でどうする。お前は、うまくいったかもしれん母さんのお見合いを壊したんだぞ、それを忘れるな」


「……それは、ごめんなさい。でも僕は、嘘も方便って言葉は嫌いだ」


「うまい嘘をつけるようになるのは誰も責めやしないよ。だがまあ、さっきはよくやったぞ、じいちゃんすかっとした」


 最後ににっこり笑う。調子いいんだから、と、以前に戻ったよう。つられてみんなにっこり。


「お母さんもよ、すかっとした」


「あたしもっ」


「あ、ありがとう。僕も言いすぎたかなって」


「ははは、そんなことはない。あれくらいのほうが連中にはいい薬だよ、息子さんも目が覚めたろう、これを機に親孝行の一つ二つ、してやればいいがな」


 みんなで料亭を出る。院長先生にはあとで謝っておかなくちゃ。


「……憲邇」


 全員がきちんとシートベルトを閉めたのを確認して、出発。


「紗絵子をよろしく頼む」


「え? じいちゃん?」


「お前がいい子で、安心したよ。心配いらんようだな……俺は……疲れた……」


 後ろの席で男二人がなにを言っているのか、しきりに振り返っている柚香里はわかったかもしれない。でも土地勘のない私は運転に夢中で、来たことのない道のりに四苦八苦していた。








 夜は久しぶりに三人でお風呂に入った。二人とも大きくなったと、毎日のように思う。狭い浴槽で暴れまわるから、あちこちぶつけて痛かったわ、ふふ。


 子供たちを寝かしつけて、私は一人、台所の椅子に座り、頭を抱えていた。


 わかっていたことだった。それも含めて、お見合いを断っていたのかもしれない。今後ああいった席で、礼を欠かす服装は確かに、してはいけない。でもそんな余裕はありはしない。日々暮らしていくだけで精一杯。誰かの冠婚葬祭はレンタルでいけるけど、でも自分の見合いくらいレンタルは嫌だわ。考えなかった私がバカだけど、父の言うとおり、あの場ではレンタルくらいする必要があったかもしれない。


 でも私も、スーツと結婚は嫌。今度お見合いするなら、格式ばった場所じゃないところにしてもらおう。できるなら。


「母さん?」


 憲邇が起きてきた。


「あら、どうしたの、眠れない?」


「うん……今日はごめんね、台無しにしちゃって」


「いいのよ。またいくらでも機会はあるわ。お母さんもあんな姑は嫌だもの」


「うん……僕、貧乏でもいいよ、僕が将来お金をたくさん稼ぐからさ」


 昼にあんな大言を言った男の子と、同じとは思えない子供らしい台詞だった。


「お母さんが、お金がほしいからお見合いしたって思ってるの?」


「僕たちに苦労させたくないって、顔に書いてある」


「……当たり前でしょう、あなたたちに苦労はさせられないわ」


「苦労していいよ、母さんのためなら」


 ……どくん。椅子を引いて、憲邇の正面を向く。


「嬉しいこと言ってくれるわね」


「母さん、泣いていいんだよ」


 どくん。どくん、どくん、どくん……


「しばらくお休みしなよ。日に日にすり減ってる。見るのがつらい。母さんが笑ってないと元気でないんだ、ゆぅちゃんだって」


 なぜか、さざなみが立った。


「憲邇はゆぅちゃんが大事?」


 私より?


「うん。そりゃあ大事だよ。許されないのはわかってる。結婚できないのだって。でも僕は、ゆぅちゃんが好きだ」


 雅実さんの声が、浮気を宣言する。


 いらだつ私は、その唇を塞いだ。


 雅実さんの驚きは、驚くほど少なかった。


 小さな手が、私を抱き寄せ。「ごめんね」と耳もとで、甘い声を出す。


 唇は何度も、女を経験しているものだった。私の求めに、的確に応じる、雅実さんの唇だった。


 私は彼を押し倒し、瞳に宿る海に吸い寄せられるように、衣類を脱ぎ捨てていった。


 台所で
雅実さん(けんじ)を、犯した。








 翌朝、柚香里が熱を出した。今までにない高熱だったので心配になったけれど、憲邇がつきっきりでいるからと、仕事に送り出された。


 憲邇はなにも言わない。なにごともなかったかのように振る舞い、いつもどおりに真面目ないい子だった。昨日のせいか少し目に隈がある。


 私はというと……憑き物が落ちたかのように、生き生きとしていた。雅実さんに不貞を働いたという意識はなく、また雅実さんと肌を重ねて、それで微笑んでいる。昨日は勢い余って避妊しなかったけど、次からは気をつけなくちゃ。三人目は大変だわ、と。


 台所で娘に見られてた、それもわかってる。でも、夫婦の営みよ、と、高揚していた。


 気持ちよかった。この上なく、快感だった。


 憲邇は夜だけ、雅実さんになるの。そうよ、そうなんだわ。憲邇は夜になったら、雅実さんに変身してくれるの。ふふふ。


 私は間抜けだった。壊れかけていた。


 このときから、終末へと歯車は回りだしていたのかもしれない。


 私は何度も、息子とまぐわった。我を忘れ、気がつけば息子を押し倒していた。息子の気遣った優しい言葉を聞くたびに、転げ落ちていった。


 快感に喘いでいたのは始めのほうだけ。次第に罪悪感に苛まれるようになる。わかっていた。息子の心が私にないことくらい。わかっていた。これこそ赦されないことだと。


 わかっていた。段々、息子に、憲邇に……惹かれていると。


 憲邇は……美しかった。


 止められなかった。


 残りの避妊具を捨ててしまった。


 毎夜のごとく憲邇を貪った。


 孕みやすい、女だった。


 わかっていた。なにもかも。こうなることくらい、初めて雅実さんの声をした憲邇と通じたときから。次第に雅実さんと等しく、しかし別のものへ変化する指先の愛撫に、満足させられ、突き上げられ、射精され。


 何度も何度も、だった。だから当たり前。


 わかっていた。わかっていて気づかぬフリをする、私は卑怯者だった。次第に柚香里を憎く思うようになり、今度は私が、柚香里に雅実さんの姿をした憲邇を、とられると、妬むようになった。次第に女らしくなっていく娘に、誇らしいと思うことはなくなり、女らしいふくよかな体つきに、透き通る白い肌に、嫉妬をしていた。


 産んでやる。小娘が。……そう、思わなかったといえば、嘘になる。


 でもどうやって? 熱につかされた頭はうまく働かない。毎日の仕事をこなしていくうちに、鼓動を感じるようになってしまう。すぐに隠せなくなる。その前に決めないと、でもどうすれば?


 自宅では子供たちが新婚旅行の話をしていた。赦されざる禁断の関係だというのに、せめてと言って。私はもう、声高に否定ができずにいるためか、堂々と。旅行といえば、


「彼と旅行行ってきましたー、イェーイ!」


 日焼けした彩子さんはしばらく職場を空け、彼氏と二人きりで外国へ行ってきたみたい。「今までご迷惑をおかけしました、これから頑張るので許してください」と、それからこっそり私にだけ「ゴールイン間近よ、褒めて褒めて」なんて言いに来たのででこぴんしておいた。


 彼女から外国の話を自慢げにされ、相槌を打ちつつも、外国はいいと、話を聞くに思うようになった。今なら安く行ける、日本と違って医療も進んでいるところがある。学ぶ理由で、と建て前を立てやすいし、向こうで経験を積んだノウハウで別の職を探せるかもしれない。あるいは向こうでしばらく働けるかも、子持ちでも。


 この職場から離れたところで産みたい。この人たちに私が妊娠していると、知られたくなかった。いい人ばかりだったから。


 特に彩子さんとは仲良くなった。憲邇と夜に交わるようになってから、私ははしゃいでいたんだろう、よく声をかけられ、私も冗談を交わすようになっていた。相談もされ、相談するようになり、家にも遊びに行き来するようになった。感づかれては、いない様子。


 親しくなるたびに、逃げ出したいという気持ちが破裂しそうなほど、喉の奥からせり出しているのも、わかっていた。


 それから逃げるように、酔って眠っている彩子さんの傍で、また息子とセックスをした。


 それでも息子は、拒絶をしなかった。組み伏せられるほど力の差はあるけど、逃げようと思えば逃げられるはずだったのに。今彩子さんに目を覚まされると私が終わると、わからぬ憲邇ではないはずなのに。


 柚香里も変わらず、私を慕ってくれていた。私が時折敵愾心を向けていることに、優しい娘が気づかぬはずもないと思うのに。笑顔で私の真似をする。もちろん、ケンカもたくさんしたけど。ろくろく柚香里には構っていなかったはずなのに、それでもわたしに笑顔を振り撒いてくれる。ちくちく、良心が痛い。


 冗談めかせて、その頃から憲邇を柚香里と取り合う遊びをしていた。大岡裁きを憲邇でやり、憲邇と二人ともが手を繋ぎ買い物に出かけるようになった。


 柚香里は以前ほど、必死に私に対抗しなくなっていた。


 わかっていた。柚香里は憲邇の心に、自分が中心で居座っていることに。


 柚香里には憲邇がいる。わかりすぎるほど、当たり前のこと。


 逃げるしかない。仲のよい二人を置いて、私は逃げ出した。どうなる予定があったわけじゃない、とにかく外国へ向かった。その先に楽園があるはずだと、彩子さんと父に子供たちの世話を任せて。つわりはこないけど身重の体に、鞭打って。旅費も当時安かった。


 そこで天啓を知る。出産のために調べるうちに、そこでは代理母出産が既に始まっていた。これよ、これを言いわけに、いえお土産にしよう。ここで産み、子連れで帰国すればいい。すぐに異国の地から電話をかけ、飛び出した後付けの理由を彩子さんと父に知らせた。納得していた。当時代理母を引き受ければ報酬が高いのも事実だった。言い出しにくいのもまた、事実だった。加えるなら、向こうの出産費用は当時、こちらよりも信じられないほど格安だった。景気の影響だったかもしれない。一人親も向こうでは波風の立つものでないのも幸いした。


 そして……母と息子の、血の繋がった親子の娘は、生まれた。しどろもどろの英語でお礼を言い、生まれた娘に……涙が、大量だった。複雑な涙、だった。柚香里も
3000gを切る小さな子だったけれど、この子もまた3000gを割る、小さな娘だった。


 愛しかった。


 愛の結晶だわ。赤ちゃんは何度産んでも、愛らしい。


 私と、雅実さんと、憲邇くんの。息子じゃないわ、憲邇くんの。


 息子の子供でもあるとは、どうしても思えなかった。


 思えなかった。この温もりが、禁忌に触れるものだとは、どうしても。


 私の娘よ、私の、私の……私が産んだわ。私が産んだの。私が育てるのよ。なにが代理母よ、そんな人死んだわ。私が育てる。かわいい娘じゃない、


 お父さんに似て、透き通った瞳。


 涙が出る……溢れて、止まらなかった。悲鳴のように泣き続け、愛しい人の名前を叫び続けた。


 日本語が災いし、誰もその単語に非難を浴びせては、くれなかった。解する人が一人でもいれば、なにかが違ったかもしれない。


 彩子さんに連絡をした。適当な説明をつけ、私が育てるの、と。きっぱり。向こうが死んでしまったというのは、お金の増えていないことの説明にもなって棚からぼたもちだった。


『頑張って! あたし応援する! 紗絵子さん、すごいわ! 本当! ねぇねぇあなたたち、聞いてよ!』


 嬉しかった。受話器の向こうの声が応援してくれている。また涙ぐみ、涙脆くなってしまう。腕の中の赤ん坊が眠たそうな顔で見上げていた。


 私が出産している間に、彩子さんも籍を入れていた。おめでたは当分先にすると、帰国しても変わらぬ笑顔をくれた。二児の面倒も見てくれていたと、二人からも聞いた。父も穏やかに頷いてくれ、応援してくれた。向こうへ行っている間にめっきりと老け込み、年相応に見えなくなっていた。なにかがあったのかもしれない。でも訊ねるよりもまず、おっぱいをあげなきゃいけなかった。


 三人とも子育てを手伝ってくれた。彩子さんまで。嬉しかった。うちの病院は幸いにもおじいさん先生のおかげか、理解を示してくれ、産休という形で休ませてくれた。ありがたかった。


 なにもかもに嘘をついて。なにもかもを誤魔化して。つけた仮面は、あまりにも重すぎた。すぐに私は罪悪感に押しつぶされそうになった。憲邇の瞳が、わかってての責めるものに、いつまでたっても変わらないのが逆に怖かった。柚香里には気づかれてないか、父には? まさか彩子さんは、同僚は? 警戒心が解けることはなかった。心休まるときはなかった。


 また憲邇と、まぐわうときを除いて。


 憲邇は、上手だった。驚くほど……


 微笑んでいられた、事後にお互い横たわるときだけ。少し大人になった憲邇の頬をつんとつっついているときだけ、安寧を得ていた。


 過ぎればまた、罪の意識に包まれるだけなのに。


 私はぼろぼろだった。めちゃくちゃだった。泣き声をあげる
奈々穂(ななほ)をあやしながら、何度自分も泣きそうになったことか。憲邇の傍へ行ったか。


 それでも、癒されていた。奈々穂がきゃっきゃと笑うと、疲れが飛んでいくのがわかった。家族みんなが和んでいくのも。


 しっかりしなきゃ。そう毎朝自分に言い聞かせて、仕事を続けた。


 二年。なにごともなく日々は過ぎていったと、勘違いしていた。


 そんなわけないのに。私が逃げ出して、柚香里と憲邇がそうそう変わるはずも、ないのに。私の犯した過ちが気づかれないということは、向こうの犯していた過ちも、私は気づけないという証明のように、


 柚香里は、幸せそうに膨らんだお腹を撫でていた。


 小学六年生。十二を迎えたばかりの、少女の体。出産の頃は、十三になる。


 十三! その数字が繰り返されるなんて! よりにもよって、相手と血縁関係があるなんて! 雅実さんはお隣さんだった、弟も兄も私はいなかった。


 誰の子とは、終ぞ問いかけた記憶はない。聞くまでもなかった。憲邇に女にされたのだ、私と通じたから、やり方を知って。柚香里が拒むはずもない、世界で一番自分を、大切にしてくれている男の子なのだから。


 雅実さんが浮気をした、より先に、


 憲邇が浮気をした。そう思って、柚香里より憲邇をビンタした。


 悔しかった。不貞を働かれ、自分が惨めだったから。……そのときはまだ、認められなかったけれど、あとで思い返せばそんな醜いところがあったと、奈々穂に独白していた。


 荒れ狂う激情のままに、どうしたかを覚えていない。どうして柚香里を養子に出したのか、どこに出したのか。覚えていなかった。


『お母さんだって憲邇とえっちしたっ、あたしがしてどこがいけないの?』


 別の親へ引き取られるときの柚香里の顔は、今でも覚えている。違う家の子になるのよ、と、言って離した手の先は、ショックで別人へと、変化していた。


『僕はゆぅちゃんを愛してる。いけない理由を言ってくれ』


 仕方ないと思っていた。私は柚香里になにもできやしなかった。柚香里が憲邇と交わっていてもどこか、納得できる部分もあった。


『あたし産むよっ、絶対産むっ。お腹の赤ちゃん死なせたくないもんっ』


 柚香里は柚香里のままで別れを受け入れることは無理だと悟ったのだろう、すぐに深町から
草薙(くさなぎ)へと、自分で自分を過去へ押しやり、別人となったのが目に焼きついている。


『誰もはっきりと納得できる理由を言ってくれない、母さんもだ。言ってくれれば納得する、もうしない。子供は、産むけれど』


 さっきまで手を繋いだ新しい母親を窺うように見ていたのに、急にまっすぐ見つめ、私に向けたものと同じ声色で『お母さん』と言った。でも柚香里の声に聞こえない……別の娘の、言葉。瞳が違う、口元が違う。私にだけわかる、娘の顕著な変化。


 それでも、ぽろぽろ、ぽろぽろ、涙は同じだった。泣き続けるのを不思議に思っていた。これからお家へ帰るだけなのに、なんで泣くんだろ──私を振り向きもせずに。


 憲邇を振り向きもせずに。思わず声をかけた、声変わりの始まった声にも、いつものように反応せずに。


『じゃああなたたちに育てられるっていうの? 勘当された先で産むお金と暮らしがあるっていうの? どの病院行ってもおろしなさいって言われるわ、私がそうだったもの。うちはびた一文出さないわよ、許しません。柚香里は産ませてくれるとこに養子に出します、それが一番子供のためよ。それにお母さん言ったわよね、あんなに姉弟で赤ちゃん作っちゃダメって。あれだけ言ったのに作るような悪い子は、うちの子じゃありません!』


 あんなに産みたいと固く誓い、家族に反対されても押し切る気概を持って産んだはずの、娘なのに。なぜか私の手から、すり抜けていった。


 それでも手元には、愛した人との間の子供がいた。二歳になり、舌足らずな声でシチューがおいしいと、甲高い音を出してくれる子供が。


 柚香里も同じなのに。同じ境遇なのに。まったく不思議だった。


 養子縁組については、きちんとした仲介をとらず院長先生に手はずを整えてもらった。なので直接会わなくちゃいけなかったけれど、悪い人ではなさそうだった。妊娠してしまった子供を引き取ってくれるのだし。


 暮らしも立ち行きがいかなくなっていたから、実際柚香里の分の生活費を考えなくてよくなるのは助かった。周囲も納得していた。柚香里のためなのよ、と、作り笑顔にまで。


 柚香里のためよ。決して私のためじゃないわ。これで奈々穂と父、それから私と憲邇の二世帯家族じゃないと、奈々穂は父も母もいてよかったわねぇと、三人家族のような暮らしをして、いった。父は隠居したかのように、奥でひっそりと住むようになったため。


 そうよ、娘はいるじゃない。奈々穂がいるじゃない、目の前に。娘はいなくなってなんかいないわ、ねぇ奈々穂?


 あなたは幼いから、憲邇をとったりしないわよね? 憲邇と深い仲になんて、なったりしないわよね?


「おにいちゃん、かみくしくししてぇ?」


 柚香里は私に憧れ、髪を伸ばし続けてくれた。憲邇ももちろん柚香里の艶やかな長い黒髪が大好きだった。巡り巡って憲邇に撫でてもらうのに伸ばし続けている髪を、櫛で梳いているのを見るためか憲邇に同じことをしてほしいとよくねだるようになった。短いのに、憲邇は丁寧に丁寧に梳いてあげていた。


 父になってくれて、いた。真綿で心臓が締めつけられるような穏やかな日々が続いた。奈々穂は憲邇をお兄ちゃんと慕い、ごろごろと甘える日々。私とも時折、寝てくれる日々。甘えてくれるかわいい奈々穂を幼稚園にやれず、家に半分閉じ込める日々。なんの疑問も持たずに娘は、そのまま三つになり、四つになり、五つになり。憲邇は来年高校へ進学することとなり、奨学金もありどうにか送り出してやれることができた。


 少年から大人へと変わりつつあった凛々しい憲邇は、誘拐されてしまった。凛々しい面持ちで、背筋を張って暮らしゆく憲邇は、あのおぼっちゃんよりよほど本物らしかったのか、そのときは混乱でなにも考えられなかった。言われるがままに金の工面に走り、警察を無視して頭を下げて回った。焦りが奈々穂を泣かせた。それでも、


 愛しい憲邇を失うことへの恐怖が大きすぎた。あの子がいなくなったら、あの人がいなくなったら私はどうしていいかわからなくなる。生きていけなくなる。誰に頼ればいいのか、誰に縋ればいいのか。奈々穂の涙が痛いはずなのに、それだけが心に残って。


 柚香里の有り様と、なんら変わりなく。


 以前から親交のあったという桜園との繋がりが生きた形となり、どうにか憲邇は助け出された。私はそのことだけを覚え、険しい顔つきをして戻ってきた憲邇を抱きしめてばかりだった。泣いてばかりだった。


 憲邇はその頃から桜園へ頻繁に出入りするようとなり、子供たちとも親しくなっていた。義理堅い子だった。


 海に決意が秘められるのに、時間はかからなかった。


 奈々穂のことが知られるにも、決して時間はかからないはず。


 医者になる決意を、固めてしまったのだから。


「僕、医者になるよ。医者になる。ならなきゃいけないんだ」


 どうしたらいいのか、考える間も与えられず、家族に、父に気をかけることができず。


 父は……倒れてしまった。長くないと、自分でわかっていて放っておいたらしい。それで隠居を送っていたと、告白された。


 私はつられるように体調を崩してしまった。ぼろぼろぼろぼろと、悪いところばかり次々に見つかり、ぼろきれのようになっていた自分を笑ってしまう。


 報いがきたんだ。姉と弟に子供を作らせ、自分も息子から愛娘を授かってしまったことに。


 勤め先へ入院して、病室で父の訃報を聞いた。彩子さんが強引に入院させてくれたのに、ほんの数日で。心臓がどうの、だった。


 家庭が崩壊していくのを感じた。必死で頑張ってきたつもりなのに。天国で雅実さんが見てるのに。ぼんやりと窓の外を眺めながら、不思議と悲しまなかった。あれだけ我慢していた泣くことができない。母親の入院を笑顔で明るくしている奈々穂のりんごを、食べさせてもらって。


 奈々穂もここにいないほうが、きっと幸せになれる。憲邇にも知られてしまう。残酷な失格者が、麻痺した頭でそう決めてしまった。にっこりと笑顔でおいしいと、嘘をついて。


 お見舞いに来た憲邇を、押し倒す元気はもう残っていなかった。でも、傍に愛する夫がいてくれることは、とても心強い。キスを交わし合い、愛する娘と三人で笑えることは、とても。


 奈々穂も養子に出してしまった。無慈悲な母だった。同じように便宜を図ってもらい、ふと別れの前夜、柚香里のようなおかしな前兆があったような覚えがある。でも朧だった。


 憲邇しかいなかった。傍にあり、手を握り、温め励ましてくれた人しか、もういなかった。彼の手厚い看病があったから、私は思ったよりも早く仕事に復帰できるようになった。


 このまま看護婦でいられたら、将来は隣に憲邇がいて、二人でお仕事ができるかもしれない。そう考えるとわくわくしていた。


 大きな家に二人だけの暮らしが、これからずっと続くと、夢見てた。もう立派に一人立ちのできるほど成長した息子を、今さらだけれど親らしく見守ることにしよう。そう思って夜をねだることはしなくなった。たくましい肉体を見るだけで半ば満足だった。


 入学式では誇らしかった。トップの成績で合格した息子が壇の上に上がると、頑張ってきたかいがあると感慨深かった。誰に恥じることのない立派な息子に鼻高々で、天国の雅実さんにも、父にもしっかり顔向けできると、なにかを忘れたい思いも強かった。なにも心配いらない、これからは円満だと、思い込むようにさえなった。


「……ゆぅちゃんが転校してきた」


 その言葉を、息子の口から聞くまでは。ただいまより先に私を惑わせる高校二年生も驚いている様子。詳しく事情を聞くと、当時の記憶も面影もまるでなくした柚香里が、同じクラスに転校してきたのだそうだ。憲邇のことも覚えておらず、草薙の一人娘として。


 別人のように明るくなっていた柚香里をこの目で見るまでは信じられなかった。明るく、激しく、気さくで、口も悪い柚香里は、でも柚香里だった。面影は残っている、長くしたままの黒髪、危ういほどの細さ、薄さ。元気であることが不思議なほど、でも柚香里でしかなかった。


 知らずを突き通した。親子で。なにも関係のないただの一クラスメイトとして、触れ合っていった。


 だから普通に、恋仲となった。


 悪夢は再来する。


 私は帰るなり憲邇に抱きつき、泣いて懇願した。やめて、やめて、お願い。あの子と結ばれるのだけはやめて。もう草薙になったあの子と、法的に許されるからってくっつかないで、向こうの親御さんだって困ってるんでしょう?


「五年前のこと、向こうの人は覚えてると思うよ。でも草薙さんの母親は僕を見ても驚いたりしなかった。僕があの子供だと気づいてはなかった。母さんが会わなければ気づかれることはないと思う」


「気づかれなきゃいいの? そんなので許されると思ってるの? ねぇお願い、やめて、やめて?」


「……母さん。僕は今の関係を壊したく、ない。一時できた砂の城みたいなものだってわかってる。でも僕……」


「やめて!」


 愛してるなんて言わないで! 好きだとか、愛とかそんなの、もうこりごりよ! 充分触れ合ったでしょう? あの子とたくさん抱きあったでしょう? もうお姉ちゃん子は卒業して? 私がいるわ、私がいるじゃない、ねぇ? 私だって今の暮らしを壊したくないわ。あなたと二人きりの、大事な宝物のような毎日を壊したくないの。ねぇお願い、お願いよ、一生の、お母さん好きにしていいから、お姉ちゃんはやめて、やめて、やめて……


 醜かった。変わった柚香里のほうがよほど、美しかった。


 ずるいわ。……その一言ですべて、収まるのだから。


 抱きしめる温もりに愛撫してもらいたい。囁いてもらいたい。男になった息子に、な、なぐ、慰めて……もらいたい。


 ひっそりとするようになった自慰でなく、本人から。また撫でてほしい、向こうから抱きしめてほしい、抱いて、抱いて、抱いてっ。


「無理だよ。僕の好きなのは、柚香里さんなんだ」


 家出した。出るしかなかった。憲邇が柚香里を連れてくる前に、自室のベッドに連れ込む前に逃げ出して、その間に別れるのを祈るしかなかった。息子と大ゲンカしたの、匿ってちょうだい、と、仕事を辞めていたおじいさん先生の家へ転がり込んだ。向こうも一人きりの余生で寂しかったのかすぐに受け入れてくれた。私の形相になにも聞かず、優しく迎え入れてくれた。今まで数え切れないほどお世話になったから、せっかくの機会に恩返しをしよう。そうして身の回りから食事の世話まで全部してあげた。嬉しそうににこにこ微笑んでくれるおじいさんにこっちも穏やかな気持ちになれた。忘れることができた。職場じゃ彩子さんが茶化してくるが、誰も今さら後妻だのなんだのは言わなかった。もう病院の実権は息子に移り、おじいさんにはなんにも残っていなかったのだから。


 ふらりと様子を見に帰り、憲邇がはしゃぎながら柚香里と電話をしてる様を目撃するとすぐに反転した。自宅へ帰らぬ日々が続き、ふと曇った顔で漏らしたおじいさん先生の言葉を受け、看護婦の経験を活かしに外国の被災地へ、最悪なことに逃避で飛び出した。


 目的を違えた私に、苦しんでいる人たちは本当に助かったと、ありがたいと笑顔になってくれ、良心が痛かった。悲惨な状況に忙しくあれば、余計なことを考えずに済む。こんなひどい私でもできることがあると、彩子さんへ連絡を入れるときは言いわけをした。


 充実はしていた。少しの誇りを持てるようにもなった。やがて期間を過ぎ帰宅しても、今度はまた行きたいとふと、自然と考えついていた。仲良しの息子と娘を見てそこから逃げ出したい思いもそれはあったと思う。でも、またやりたいと、純粋に思う気持ちも強かった。看護婦の業務をこなすうち、モラルを失くしつつあった日本人にたびたび激怒したこともあったせいかもしれない。呼べばただで救急車が数分で駆けつける現状に甘える、患者のフリをした悪党どもより、必要としている場所がある。ろくに応急手当一つできない向こうに教えるだけでも、自分本位なばかりのアホどもに構っているよりよっぽど価値があると、段々気持ちが変化していった。


 いえ、それは少し。本音はきっと、このままだと憲邇と柚香里が医師と看護婦でくっついてしまうから、それを間近で見たくないがための下地作りを始めたに過ぎない。破局したら続けよう、くっついて見事二人で医療に従事するのなら逃げ出そう。そう、逃げ場所を作っていた気持ちが、きっと本物だった。


 だからだと思う。戻ってきたとき、憲邇と柚香里は仲のよい恋人となっており、もう別れるなんて絶望的なほど、子供の頃を再現していた。


 諦めたわけじゃない。でも認めるしか、なかった。


 せめて避妊しなさいと言い、これからはしつこく言わない代わりに、私をねだった。邪魔するようにこっちじゃ腕を組ませてもらった。デートもしてもらった。


 はしゃいでた。柚香里との仲を口うるさく言うよりも、自分に相手してくれることを見よう。憲邇は私とデートしてくれている。そのことだけを考えよう。楽しいんだから。


 なんとかそんな余裕ができる頃の学園祭は、女装してまで柚香里と仲よさげな二人を見せつけられ、どうしてもきつい目をしてしまった。そのたびに辛そうな憲邇を見るのは苦しかった。けど、責めてはくれない。自分もそうだと、その場では海は沈黙を保ってくれた。


 調子に乗って釘を刺す電話で、とうとう爆発した憲邇を覚えている。


「明日は私と学校回りましょう。……え? でも……姉でしょ、あなただけは忘れてないわよね? ……うっ、それは、身をもって教えてるのよ。……違う、それは違うわ憲邇くん、憲邇くん? ……して? してよ、デート。添い寝もよ? わかった、いい子にして待ってる。大好きよ憲邇くん。憲邇くんは好き? ……うん、ごめんね、わかってる。デート楽しみに、あっ」


 不満がないわけじゃあ、なかった。我慢させていた。謝りたいと何度かかけたけど、しばらく憲邇は電源を切っていた。仕方なくメールで、入れたときに見てもらおうと謝罪を送っておいた。……あとになって返事が返ってきた。苦渋の末に、了承の返事を送った。


 きっと避妊する。学園祭の終わりに思い出をあげたい憲邇の気持ちを汲んで、家を空けてやりましょう。どうせ、どうせ……


 私がなにしてもダメなのよ。二人は結ばれる運命なのよ。赤い糸で繋がってるのよ、クラスメイトが言うように。だからグラマラスな英語教師から乗り換えたのよ。やっぱり姉がいい、僕は普通の恋愛ができない。そうに決まってるわ。だから誰に聞いても柚香里とのことばかりで、憲邇が誰と付き合っていたかを聞けないのよ、教師との以外。


 断ったのよ。あなたは僕の姉じゃないので、付き合えませんって。そうだわ。


 何度か、息子たちの行動が目に余り、逃げ出しながら二年が過ぎた。柚香里はウエディングプランナーとして働き出しており、若干ほっとしつつ、憲邇は高校時代の恩師であるグラマーの先生に進路を相談し、なんとかあまりお金のかからない国立から医者になる便宜を図ってもらっていた。生徒に手を出そうとしたこと以外、良心的な教師で卒業時には厚くお礼を言った。憲邇にたくさん思い出をもらい、それを胸に抱いているのがありありとわかった。


 私と同じだったから。


 憲邇に思い出をもらい、感化され影響された生徒が数多いことは明白だった。憲邇の卒業年度の生徒の評価が高いことからも窺える。


 背負っているものがあるから。息子の背中が雄大になるのを日に日に感じる私だけはわかっていた。禁断の関係とわかっていても、それを超える覚悟を持って姉と付き合っているが故のもの。それだけじゃないと薄々感じてはいたけれど、それがなんなのかまでは皆目見当もつかなかった。


 そのせいなのか、突然柚香里が別れを切り出したらしい。詳しくは知らないけど、急に憲邇の顔が曇りだしたので聞くと、別れたいと言われ、別れたとそっけなかった。詳しくは聞けなかった。なにか大ゲンカでもしたか、とんでもないことがあったのか。


 小躍りを、した。喜び勇んで、憲邇の首にかじりついた。驚いたことに、塞ぎ込むのも数日で終わり、憲邇はまたあっさりと前を向いて勉強に励むようになった。


 私には寄り添わずに、一人で。


 眩しいくらいの、強さ。そのときになってようやく、自分がもうほかの誰も目に入らぬほど、憲邇を好いていることを自覚してしまった。病院で段々同僚がよそよそしくなったのは院長が息子に変わったからでなく、私が変わったから。近親関係を求め、血の繋がった息子を男としか見ていない濁った瞳をしていると、気づかれただけ。それでも彩子さんだけは親身にしてくれた。気づけば当時の面子は私と彼女だけだった。時間はずいぶんと過ぎていて、私ももう三十二だった。あの頃まだ二十代前後だった看護婦のほとんどは家庭に入ってしまっていた。彩子さんだけは働きたいと、夫に主夫を願ったそうだ。


 仕事から帰宅すると、いつも憲邇は机に向かっていた。昔から憲邇は整理整頓が苦手で、散らかりっぱなしの部屋を片付けるのが楽しかった。


 けれど。ふと彼の傍を横切ったとき、感じてしまった。憲邇から放たれる悪い匂いを。


 男の匂い。抱かれたくなる、包まれたくなる、撫でられたくなる魔性の匂い。香るフェロモンに、ありがとうの低い声。夢を追う男の姿。


 無性に後ろから抱きしめたくなる背中。夢中で、女なんか寄せつけない背中。寄り添いたい、傍でじっと横顔を見ていたい。集中している憲邇はお礼を言うとすぐ勉強に戻り、私のことなど目に入っていなかった。ますます素敵だった。


 ……抱いて。一緒に寝て。何度も口をつきそうになった。一息ついたときにわかりやすいと、脱いだこともある。でも途中で、そのままでいられなくなって着直した。


 どれだけ視線を飛ばしても、憲邇の視界に私は入らない。気づかない憲邇じゃない、わかっててわざと無視してると、すぐに理解が追いついてしまった。


 ここに、いられない。今度は違う意味でまた、逃げ場所へ飛び込んだ。言ってしまうのが怖かった。犯してくださいと一言言えばすべてが崩壊する。家族でいられなくなる。言いたくて言いたくてたまらない背中から逃げ、外国で自慰を繰り返した。虚しいだけだった。


 救助活動や支援活動を行ううちに、やはり日本の暮らしが恋しい気持ちが強まった。私に向いているとは思う。けれど、やっぱり日本で働きたい。都合のいいときだけ助けに向かうのは虫がいいと、わかっていても普段は看護婦、看護師でいたい。誇りが大きいのはやはりそっちだった。ただしばらくは世界情勢が思わしくなく、世界中で不幸が続き家に帰ることがなかなか難しかった。たまに帰ると懐かしい憲邇に抱きつき、昔のようにキスをした。向こうじゃこれが普通よなんて、言いわけをして。


 何年か過ぎ、憲邇が制度の変わってすぐに精神科医となってから。気がつけばなぜか早くに亡くなる桜園の子供たちのためだと、必死になって新薬開発をしてきた特許で暮らしは嘘のように楽になっていた。ついでに帰れない私の代わりに女中を雇っていたけど、仕方ないことと思う。


 そうして……ある日のこと。また久しぶりに家の門を叩き、いつものかわいらしい若い子が出てこないので入っていくと、


 クラッカーが鳴った。憲邇が一人で、ケーキを作って待っていた。花束を渡され、お誕生日おめでとうと言われる。目を瞬いた。なんでもない一日、もちろん誕生日じゃない。なのに憲邇は、憲邇は……


「今までできなかった分を、今やろうよ。親不孝ものでごめんね。今まで本当にありがとう。ハッピーバースデイ」


 最悪だった。私は最悪の母親だった。力の限り憲邇を抱きしめ、息の続く限り口づけを交わした。花の匂い、懐かしい男の匂い……一線を越えたい、また。押し倒そうとした。


 いつの間にか、憲邇の力は私を超えていた。


()はもう、子供じゃない」


 告げられた当たり前の真実に、私は意地悪く曲解をして、バカな返答をした。


「そうよ、だから、だから私、好きなの。あなたは子供じゃないわ、憲邇くん。好き、好きよ、大好き。ここまで大人になれば、年の差なんて関係ないわ。無理だってわかってる、でも、恋人ごっこくらい、して」


「……ケーキ、自分で作ってみたんだ。食べてみてよ」


 わかっていたこと。もうあの頃には戻れないということくらい。……一口、食べてみる。それ以上食べられなかった。伝わってくるもの。感謝の気持ちが、恋しい気持ちじゃない、母親への感謝の気持ちがっ。


「ごめん」


 頭を撫でる憲邇。背の高い憲邇。私よりよほど大人の、たくましい憲邇。


「私こそ……ごめんなさい」


 ごめん、ごめん、ごめんねぇ……謝るばかりだった。涙しか口にせず、甘いものはほろ苦くてとても、食べられやしなかった。


 膨れ上がった罪の意識。罪悪感というもの。母親らしいことをなんにもしてやれず、孝行息子を息子じゃ嫌だと、だだをこねる。


 でも好き。好きだった。ほかの誰より好きだった。もう雅実さんにはけして見えない、憲邇が好き。腕が、声が、背中が。そこにある全部が、好き。


 今度は向こうから、押し倒してほしい。その思いでいっぱいだった。


 憲邇に恋人ができていることはあとで知った。それどころか、医者になってからはとっかえひっかえ、次々と恋人が現れては消えていた様子。女遊びなんて情けのない、なんだかムカムカとして、家計の心配のいらないことをいいことに海外を渡り歩くようになった。
















「そこから先はみんなも知ってのとおりよ」


 ちりんちりん、と、耳ざわりのいい風鈴の音が響く。ああ涼しいわと、パタンとアルバムを閉じた。ようやく見せられる深町家のアルバムを見せるとき、ふと今しかないと、懺悔をしてしまった。


「最近の帰国で、憲邇くんの現在を知ってね、じゃあこの際お願いしちゃおうって、犯してくださいって頼み込んだの。そしたら念願叶ってねぇ、うふふ」


 じっと聞いてくれたみんな。今はこんなに囲っちゃって、憲邇くんときたら。


 この子たちはみゆまでの人と違い、本物だわ。あの人たちは寝ていないものね。憲邇くんと添い遂げたいって、思ってもできなかった人とは違うのよね。しょうがないわぁ、まったくもう。


 憲邇くんと昼夜をともにし、ことを済ませたなら。一目会うだけでわかる、その瞳にどれだけの輝きが宿るのか。ええ、
(ともえ)さんを見ればね、うふふ。


「聞いてくれてありがとう。そして柚香里、みゆ、
詩音(ふみね)、奈々穂。ごめんなさい。謝って赦されることじゃないのはわかっているわ。赦してとは言いません。聞いてくれて、ありがとう」


「……いいえ。お母さんが悪いわけじゃ、ないわ」


 柚香里はまた、優しいこと。ふふ、昨日は高校のときみたいに激しく口論したのにね。


「ねぇみゆ、詩音、奈々穂?」


「うん。さ、紗絵子さんのせいじゃないです」


「そ、そぅです、紗絵子お母さんのせいじゃないよね、奈々穂ちゃん?」


「うん。よくわかんないけど、ななほはたのしかったよ。だぁれもわるくないよ、ね? だから泣かないで、お母さん」


「……ごめん、なさい……っ」


 強い娘たちに、涙が止まらなかった。


 かくもたくましく、凛とした強さを持つ娘と孫たちに、ぼろぼろに。


 ようやく肩の荷が下りたのかもしれない。なにか重たいものがふっと飛んでくような感覚に襲われ、思わず自分の肩を抱いた。そっと触れ合う、家族の指。


 笑顔の向こうに、雅実さんが見える。父、母、家族みんなが。今の更なる近親に困り顔で、でも笑っている。どうしてか。


 笑ってくれている──


 愛して、います。


 風鈴を揺らす風が、とても心地よかった。
















































































 外伝番外編第二話あとがき的戯言




 こんばんは、
三日月(みかづき)です。このたびは「ごめんなさい」外伝番外編第二話を読了くださりましてありがとうございます。


 ほぼ通して完全に過去の話で終わるのは外伝だろうと思ってのことですが、別に第五十話をこれにしてもよかったかもしれません。いえ、やっぱりダメかな? 外伝的位置づけだとは思うのですが、ううん難しい。


 赦せなくとも、認めることができるときもあるでしょう。


 それでは今回はこの辺で。また次のお話もよろしくお願いします。




 
20100719 三日月まるる




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テーマ : 官能小説 - ジャンル : アダルト

2011/02/19 16:22 | 小説COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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